2011年5月31日火曜日

第17回 「絵と戯れる会」 作品発表会
平成23年5月26日~5月31日 
福島駅近くのパセオ通りの福信ギャラリー
発表者10名 作品33点 
油彩、水彩、アクリル、水墨、クロッキー、版画、陶器、卵殻、陶片オブジェ、パステル、切り絵














 今日で「絵と戯れる会」発表会の一週間開催の幕を閉めました。
今回の来場者は昨年に比べ半減の180名弱でした。福島が元気を取り戻すには時間が掛りそうだが、皆で明るく頑張って行きたい。

 今日も友人が多く来場した。会社OB先輩は原発が心配なので、子供達が居る東京へ移住することを決断したそうだ。

 会社の後輩は独立して会社経営してるが、今朝、県庁で災害復興への取り組みのプレゼンテンションしてから会場に社員の方と来て頂た。

 近くの教育センターの友人も来て頂たが、彼は陸前高田等へ関東、関西地区からの救援物資を毎日のように運搬していた。今後は避難者への心のケアーボランテイア活動が重要に成ると言ってた。
 
 霊山のNPO法人里山学校の校長先生、霊山の友人が一緒に来て頂いた。共に昼食し、歓談した。校長先生の娘さんが、会場近くの病院で出産されたそうで、お孫さん出産祝いの赤飯と、学校の運営の自然農園で採れた真っ赤なトマトを頂いた。霊山の友人は閉会後の絵画搬出作業を手伝って頂いた。

 今回の発表会は台風、風評、余震の中で開催されたが、多くの友人の来客の笑顔で幸せな時間を持つことができ、感謝で有る。震災の復旧、復興は長期化が予測されるので、評論家に陥り易い自分を戒めながら、ボランテイア活動の実践を継続する思いだ。


 来年の発表会に向け、余裕を持った作品作りに早期に取り組みたいと思う。今回のごとく、明日は誰も予測できない。毎日を誠実に一生懸命、悔いの無い生活を心がけたい。

 
 






2011年5月30日月曜日


今朝の福島民報の朝刊に「絵と戯れる会」が掲載された。
今日は台風の影響で大雨、強風で来客が極端に少なかった。
今回の会場は福島駅から中心部へ歩いて10分程の昔は飲み屋が多く有った洒落た通りで、昔の”すずらん通り”を改め”パセオ通りに有る。
FMポコスタジオもあり、小さな個性あるお店が並んでいる。

 この場所は昔は良く、福島へ来たお客さんを案内して、食事、クラブで楽しんだ。飯坂温泉の宿泊客は市内のこの場所にタクシーを飛ばして来たものだ。福島競馬場が開催されると、騎手、馬主、調教師、競馬を楽しむ遠方からの客も遅くまでクラブで騒いでいた。
 
ジャズ喫茶、ダンススタジオ、等、夜のネオンが眩しく、帰宅タクシーがなかなか拾えない程の活気が有ったが、バブルが弾け、リーマンショック後、かつての面影が今は無い。

 
 今回の大震災、原発、風評等、福島県の復興はどのようにすれば良いか、直ぐには思い当たらない。時間は刻々と流れており、とりあえず、一歩ずつ、前に足を運ぶしかない。このような世界に”福島”の2文字が印象付けられ、かつてのどのような宣伝アピールでは獲得出来ない知名度の”福島”を、今後の大きな復興飛躍のルートに乗る方法を、多くの方からの知恵を募りたい。

2011年5月29日日曜日

想定外は口実、想定出来た。

 想定とは?時間的スパーンと事象の規模をどのように設定するか?により、想定外、内に振れることを下記の文章「時間のものさし」で気付かされた。

今回の大震災は1000年前の事実をどのように認識して、時間、規模、発生確率をどのように設定するかの思考能力の問題であった。自然現象は地球規模、宇宙規模で思考し、天の摂理(自然法則)を受入れることの重要性を再認識させられた。

「時間のものさし」

林雄二郎(日本フィランソロピー協会顧問・トヨタ財団元専務理事)
 時間を測るものさしは無数にある。
 そのものさしを使って物事を考えることが大切だ――
 そのことを教えてくれたのは、 文化人類学者の梅棹忠夫君だった。
 彼と初めて出会ったのは、大阪万博の頃だったろうか。
 昭和十七年、総理府の技官になった私は、
 戦後、経済安定本部や経済企画庁で
 日本経済の復興のため力を尽くしていた。 終戦直後、片山内閣から経済復興計画の策定
 という第一課題を与えられた我々は、
 三か年計画や五か年計画を立て、実行に当たっていたのである。

 昭和四十年、経済企画庁経済研究所の所長時代に、
 二十年後の社会を予見して書いた私の文章は、
 「林リポート」と呼ばれ、 日本社会を発展させるためのガイドラインとして
 扱っていただいた。 同庁では、二か年計画を中期計画、
 五か年計画を長期計画と呼んだが、
 私のリポートは「超長期計画」といわれるものだった。 その後、長年にわたる役所勤めに終止符を打った私は、
 五十一歳で東京工業大学の教授となった。
 その頃梅棹君との出会いの機会があり、
 私は目を開かされるような思いをしたのである。

 ある時のことだった。
 梅棹君と議論をしていると、彼が
 「こういうことをいまのうちにちゃんと考えておかないと、
  人類はまもなく滅びるな」
 と深刻そうな顔で言う。
 これは大変なことだと思い、
 「それは何年後のことだ?」
 と尋ねると、梅棹君は
 「そうだなぁ、五千万年ももてばいいほうだ」 と言うのである。

 それまで経済企画庁にいて、三年先や五年先を見越した
 計画を策定してきた私には、気が遠くなるような話だった。
 ところが当の本人は、冗談で言っているのでも何でもなく、
 それが本当に心配でならないといった表情をしているのである。
 その時に私は、あぁ、この人の持っている時間のものさしは、
 我々とは違うのだ。時間のものさしは一つではなく、
 無数にあるのだと感じたのである。
そうやって長い時間のものさしで
 物事を考えるように仕付けている人には、
 千年、二千年というものさしで世の中の変化を
 見ていくことができるのだろう。
 梅棹君にとっては、五千万年後が「まもなく」なのだ。 我々には雲をつかむような話でも、
 彼の目には人類が滅んでいく姿がイメージとして
 はっきり描けているのではないかと感じた。

 こちらも同じ時間のものさしで
 一緒に考えなければ話ができなくなると考えた私は、
 一所懸命心の訓練をした。
 
 すると彼の言葉が決して世迷言などではなく、
 だんだんと真実味をもって迫ってくるようになったのである。
 五千万年後の世界は私にとって、空想上のものではなくなった。
 その考え方は昭和四十六年、私が未来学を主唱し、
 日本未来学会を旗揚げする際にも大いに役立った。 「未来学」といえば「年後の△△」や 「二十一世紀の××」はどうなるかといった類のことを
 考えがちだが、私の考え方はそうではなかった。
 未来を考えることは現在を考えること。
 未来学とは現在学である――
 つまり、身の回りにある変化の兆しを
 いかに現在の中に見つけるか。
 その変化の兆候のことを私は「未来からの呼びかけ」と名づけ、
 その声に応えていくことが未来研究であるとした。

 学会の設立からまもなく、豊田英二氏がトヨタ財団を設立し、
 私はその専務理事を任された。 財団の仕事は様々な団体に資金の援助や助成を
 行ったりするものだが、いずれも皆、
 将来のために行う事業である。
 
 その将来とは、十年先や百年先のことであるのだが、
 私は時間のものさしを数多く持っていたおかげで、
 伸縮自在に物事を考えることができた。
 すべて梅棹君のおかげである。
 
 梅棹君は何十年も前から、
 南極大陸の氷が溶けて地球の温暖化が進むことを予見し、
 仲間たちと盛んに議論をしていた。
 
 当時の私にはあまりピンとこなかったが、
 現にいま世界ではそうした現象が起こっている。
 そんな話は自分たちには関係ない、
 まだまだ先のことだろうと我々が見過ごしてきたことの ツケが回ってきたとも言えるだろう。

 このままの状態が続けば、梅棹君の言うとおり、
 人類の滅亡は避けられないだろう。
 何億年か後、まったく別の生物が地球上に現れるとすれば、
 彼らは人類の化石を発掘していろいろな調査をするかもしれない。
 この人類という生物は、
 未曾有の「文明」というものをつくり上げ、
 驚くべき発達をさせた。
 けれどもその文明を発達させすぎた結果、
 その文明によって自分たちを滅ぼしてしまったのだ。
 他の生物に比べて抜きん出て利口だと感じる部分があるかと思えば、
 他の生物より抜きん出てバカだったとも言える。
 利口なのかバカなのかまったくもって分からない、
 しかもそれを少しも自覚できなかったという、
 いよいよもって不思議な生物、それが人類、
 とでも説明がなされるだろうか。


 人間は過ちばかりを繰り返す存在だが、
 物事を一所懸命に考えることができる。
 だからできるだけ長い時間のものさしを使って、
 未来からの呼びかけに耳を澄ませてほしい。
 それが今年九十二歳を迎えた私からの切なる願いである。


今朝の朝刊の福島民友新聞に先日の取材記事が「感性光る技法の絵画」のタイトルで掲載された。
 

 






今日も多くの旧友が来場頂いた。30年振りの再会、会社OB先輩、会員家族、私の妻も皆と一緒に昼食を共にした。

 
今回、ある会員は会社の震災復旧
の仕事が忙しく、又、体調不良の方、他の絵画展出品と重なる方、等、都合の付かない方が多く有ったが、元気復興祈願の絵画展を開催出来たのは幸せで有る。

 



 各自の3月11日の震災時のドラマを語り合った。
福島は最終的に原発事故の早期終息を願うばかりだ。 

 昨年の「絵と戯れる会」会期中に逝去された会員の遺作の前でご遺族親子が絵を見ながらご友人に思い出話しを懐かしく、楽しそうに話されてた様子を拝見して、今後も継続して毎年、遺作を展示したいとご遺族にお話したら、大変に喜ばれた。

 










  毎年のこの「絵と戯れる会」が皆様の生きる喜びの場と成れば、
本当に嬉しく、皆様に感謝で有る。







2011年5月28日土曜日



 








 今日は夕方、会食が有るので、阿武隈急行で福島駅へ行った。被災後の臨時ダイヤで運行されていた。福島駅から徒歩で10分程で会場に着いた。
 
今日も多くの旧友が来場された。日中文化交流会の大先輩、彼の元、同僚の作品を観に来た。会社OB,夫妻、他の方々の来場を頂いた。

 東京から会員が駆け付けた。東北新幹線は、やはり震災影響で、何時もより30分程の時間が掛り、ゆっくり安全運転だったそうだ。彼の開発した防水携帯電話は今回の津浪被災でも問題が無く、被災地から感謝されたそうだ。彼の会社は1週間の被災地へのボランテイア休暇が取れるそうだ。夕方は彼を囲み、何時ものドイツ料理店でビールを酌み交わし、楽しい時を過ごした。
 今日は昨日とは異なる新聞社の福島民報新聞社の女性記者が取材に来た。明後日の朝刊に掲載予定。

 私のクロッキー勉強会の駅近くの画廊は今回の震災で来客が激減して、家賃が高いので、今回の発表会の展示会場の直ぐ近くへ移転したことを偶然に知り、訪ねてオーナーと歓談した。
彼の家自身も被災して、一時、避難者生活をしたそうだ。
画廊の展示予約が多くキャンセルされたそうだ。 

 芸術関係ビジネスの復興は最後に回され、相当に時間が掛りそうで、これから経営、生活が大変で不安と話していた。

 今回の「絵と戯れる会」の発表会の開催は、このような時期で、随分と悩んだが、”継続は力なり” を強く意識して開催したが、多くの旧友の来場で元気付けられ、又、展示作品で、皆様に少しでも元気を与える話題提供で有ったと感じている。





2011年5月27日金曜日

   今日も「絵と戯れる会」発表会に多くの旧友が観に来て頂いた。
仙台からの友人、会社OB仲間、ご夫妻等で、昔話に華が咲いた。
 
 昨年の会期中に逝去された友人の娘さんが、お友達にお父様の思い出を遺作の前で懐かしげに話していた。

 昨年同様に福島民友新聞社の女性記者が取材に来た。
会の内容を説明した。近日中に掲載予定。









 

父の遺作の小熊のデッサンは女性客に好評価だった。「絵と戯れる会」は平成元年に発足したが、私家族は福島、父は千葉に在住しており、父を時々、福島に絵の指導で招待して、スケッチ旅行等で楽しんだ。父も福島に来るのが楽しみで、温泉等へ案内して子供達と過ごした。

 
今朝の福島民報新聞に掲載されていた画家のご夫妻も訪れ、各絵の評価を貰った。

「絵と戯れる会」を通して、多くの良き仲間と交流が出来、感謝してる。今後とも毎年の開催継続に努力して行きたい。

2011年5月26日木曜日



 今日から「絵と戯れる会」の絵画展が福島市のパセオ通りの福信ギャラリーで開催しました。私の仲間の今回は11名の作品発表で、平成元年に発足し、今年は17回目の発表会である。

 故人と成った私の父の遺作も展示した。父の言葉の”継続は力なり”を守り、私が十余年の中国駐在時代も毎年、南京で描いた作品を日本に持ち帰り、出品した。昨年の発表会の期間中に逝去された親友の遺作も展示した。

 会の名のごとく、「絵と戯れる会」であり、絵を酒の肴として楽しく交流を深める気楽な会である。福島で発足したが、長い年月の間に会員の数人は福島を離れての参加で有る。

 作品は油彩、水彩、水墨、アクリル、パステル、鉛筆、クロッキー、デッサン、版画、陶器、オブジェ、等、かって気ままの画材で、自由奔放な作品の集まりで、今日、取材に来た福島民友新聞社の記者は、他の絵画展とは異なるユニークな個性溢れる展示品に驚いていた。

 私の友人が早々に会場に観に来て頂き、楽しく歓談した。土曜日は東京の会員が来福予定で、皆様と久しぶりの会食が楽しみだ。

2011年5月22日日曜日

伊達市長の英断

 政府は毎日のように原発事故に関して、新たな問題を報道し、又、責任の無い指示が多く発表されており、福島県民を不安に落としいれてる。今回の伊達市長の判断は称賛に値する。

伊達市政だより 災害対策号 【第10号】

平成23年5月19日発行

 国は、4月 11 日、原発から 20 キロ以遠で年間積算線量が 20 ミリシーベルトに達する恐れのある区域を「計画的避難区域」に設定し、22 日、飯舘村全域、川俣町山木屋地区などが指定されましたが、この際、伊達市についても該当する地域があることを認めつつも、伊達市のごく一部であることから区域指定の検討から除いた、との官房長官発言がありました。

 「計画的避難区域」に指定されると国の責任でさまざ
まな支援策が受けられますが、住民全員の区域外移住が義務付けられ、かつ、一時立ち入りも基本的には認められませんので、農業はもとより、家畜の世話や工場経営もできなくなります。

 したがって、国により非常に手厚く対処してもらえる半面、これまでの日常生活のほとんどを一時的に捨てざるを得ないのが実態で、市民生活には甚大な影響があると考えられます。

 本市の当該地区とは、霊山町石田宝司沢(こどもの村付近)地区であり、本市として
はその直後から放射線量の測定や市営住宅の確保など対
策を検討してきました。
その結果、国から「計画的避難区域」の指定を受けるよりは、50 戸 160 人の地域で
あり、「計画的避難区域」に準じた本市単独の対応によって、地域の実情に応じた対策
を講ずる方が住民皆さんにとってベターである、との結論に達したところであります。

 このため、14 日にりょうぜん紅彩館において当該地区の説明会を開催し、一時的に避難を希望される方に対して市営住宅の提供をするなどの支援策について説明を行いました。今後、世帯ごとに要望などを聞かせていただいて、個別具体的に対応してまいりたいと思います。

 なお、このことについては、県からも支援をするとの好意的な連絡を受けておりますので、ご安心ください。

伊達市長 仁志田 昇司

2011年5月17日火曜日
















 開催するか思い悩んだが、仲間、お客様が元気がでるこを期待して開催する、今月下旬の「絵と戯れる会」 発表作品がやっと悪戦苦闘の末、出来上がり、見れば又、修正したくなり、切りがないので、額に収めた。
 今回は原発の放射能をさえぎって、立ちはだかり、我が町を守ってる力強い頼りになる霊山をアクリルで描いた。山の向こう、上空には悪魔の紅い汚染物質を抱いた雲が漂ってる。
 もう一点はクロッキーで放射能を弾き飛ばす、たくましいヒップを描いた。
更に一点は父の遺作のデッツサン小熊を出品する。父の優しい人柄が表現されている。
 避難者の方々が心和まされますように希望します。多数の皆様のご来場をお待ちします。

 今朝は愛犬散歩の後、風評にめげず、西瓜、南瓜、茄子、ブロッコリーの苗を家庭菜園に植え付けた。じゃが芋が元気良く成って来たので土寄せした。玉葱を移植、アスパラを収獲した。明日は節電対策のゴーヤーを窓側にプランタンに種蒔く予定、ツルが生い茂るのが楽しみだ。又、胡瓜、トウモロコシ、人参、大根、カブの種を蒔く予定だ。

2011年5月14日土曜日

2011年 05月 02日
東大病院で放射線治療を担当するチームです。医師の他、原子力工学、理論物理、医学物理の専門家がスクラムを組んで、今回の原発事故に関して正しい医学的知識を提供していきます。 Twitter:team_nakagawa
by teamnakagawa
 飯館村は私の住む伊達市保原町から車で30分の隣町に有る。他人ごとでない、わが身の問題として何時も注視してる。政府の一律指示は各個人別の人間の尊厳を無視した神への冒瀆で有る。個人、孤立では生きられない、絆で生かされてる人間の生存の基本を念頭においた発言、行動を忘れてはならない。

福島訪問──その1 飯舘村の特別養護老人ホーム
先月末、チームのメンバー5名(医師3名、物理士2名)で、福島県を訪問しました。福島市、南相馬市などの、幼稚園、小学校、中学校で、校庭などの空間放射線量の測定と土壌の採取を行いました。また、文部科学省のモニターカーによる各地の測定結果が正しいかどうかのダブルチェックも行いました。詳しい測定結果は、順次、ブログで紹介していきます。

飯舘村にも入って、住民の皆さんのお気持ちを伺い、菅野村長と面談もさせて頂きました。東京では見えなかった多くのことに気づかされました。とくに、菅野村長との面談や、特別養護老人ホーム(いいたてホーム)訪問などを通して、現場が直面する問題を知ることができました。今回は、とくに、飯舘村の特別養護老人ホームについて、当チームの見解をご紹介します。


福島県飯舘村は、福島第一原発事故の影響で「計画的避難区域」に指定され、5月下旬をめどに避難を求められています。国から村民の避難を求められていることに対して、菅野村長は、「国に対して村民一人ひとりの実情に合った、きめ細かく、柔軟性のある対応」を求めています。

村長との面談に先立って、同村草野地区で、数名の方からもお気持ちを伺いましたが、たとえば、同じ農家でも、家畜がいるかどうかで、避難に対する感覚は違いました。「家畜は家族の一員。避難しても、毎日世話が必要」、「なじみのない土地に行けば、人間も大変だが、牛も大変。出る乳の量も半分になってしまう」といった声が印象的でした。

当方からも、「妊婦、赤ちゃんについては避難することもやむをえないが、放射線積算推定量を見る限り、成人についての発がんリスクは、野菜不足や塩分のとりすぎより低く、極端に恐れる必要はないと思います。それより避難生活などによるストレスなどの方が心配です」などと見解を述べました。

実際、致死性の発がんの危険は、100ミリシーベルトで、最大1.05倍と見積もられますが、これは野菜不足によってがんになりやすくなるリスクとほぼ同程度です。塩分とりすぎは、約200ミリシーベルトの被ばくに相当しますし、運動不足や肥満は、400ミリシーベルト程度の被ばくと同じレベルの発がんリスクです。毎日3合お酒を飲んだり、タバコを吸ったりすれば、発がんのリスクは一気に1.6倍となりますが、放射線被ばくで言えば、2,000ミリシーベルト!に相当します。

菅野村長は、村民に向けたがんの啓発の必要性にも理解を示され、今後、村民向けに、当チームの協力のもと、放射線被ばく問題と健康に関する講演会などを開催し、「村民の不安を軽減したい」と応じてくださいました。


(放射線被ばく(積算値)がある量を超えた場合、憂慮されるのが「発がん率の増大」です。私たち「東大病院放射線治療チーム」が「がん啓発」のための講演会等のご提案をしたのは、そもそもがんという病気について、いまだ日本では十分に理解されていない、と考えるからです。今回は割愛せざるを得ませんが、「がんの基本的な知識」を身につけることが、がん大国日本では必須だと考えています。機会があれば、このBlogでもご説明したいと思います。)

菅野村長は、また、村民同様に避難を求められている特別養護老人ホームの入居者らについて、「ばらばらに避難して体育館などの避難所で暮らすより、ホーム施設内に留まっていた方が、本人たちにとっていいのではないか」と語ってくださいました。この言葉を受けて、3名の医師で、特別養護老人ホーム「いいたてホーム」を訪問しました。

突然の訪問でしたが、三瓶政美施設長に詳しくご案内、ご説明をいただきました。ホームは、村役場にすぐ隣接していますが、これまで、中央からの政治家やメディアの訪問は皆無だそうです。(4月29日の当チーム訪問時点)


入居者は、現在107名、定員は入居120名・ショートステイ10名です。職員は定員130のところ現在110名勤務。避難の恐れがなければ、在宅の方も受け入れていけますが、いまのところ受け入れができない状況です。

入居者の平均年齢は約80歳、100歳以上の方もいます。ユニット型のケアを実施しており、ユニット内(10名程度)には家族のような絆ができています。入居者のうち、車イスが60名、寝たきりが30人(経管栄養:15人)で、終末期の利用者も2~3名おられました。震災後も3名が施設内で、家族、看護職員・介護職員に看取られ死亡しています。

胎児、小児の放射線感受性が高いのと反対に、高齢者の場合は、同じ量の放射線被ばくでも、発がんのリスクは高くなりません。被ばくから、発がんまでに多くの場合、10年以上の年月がかかるからです。医師の立場からも、80歳以上の高齢者の避難はナンセンスと言えます。

施設内の放射線量は、どこも1マイクロシーベルト/時以内(鉄筋コンクリート作り)。入居者は屋外には出ることができないため、年間被ばくとしても、10ミリシーベルト以下です。家族といってもよい入居者がばらばらになり、慣れない他の施設へ行って、ストレスを抱えて生活するデメリットは大きく、避難を進めることは“正当化”されないと思います。

施設が存続した場合、施設職員の被ばくが問題になりますが、三瓶所長や相談員の方が、24時間測定した「個人被ばく線量」から推定される年間被ばく量は、7.5~10ミリシーベルト程度で、やはり容認できるレベルです。

住民の個別性を重視した避難を考える上で、象徴的なケースと言えましょう。柔軟な対応を求めたいと思います。

 今回、久しぶりに千葉宅でゆっくりと過ごした。今朝は昨晩来た息子、妻、愛犬と散歩途中にコヒーサービスの出来たてのパン屋で美味しいパンを食べた。犬達はお店サービスのパンの耳を喜んで食べていた。


 今日、福島に妻、愛犬2頭と東北高速道路を走り自宅に向かう。5月の連休は毎日のように入れ替わりで、東京の子供達、妹家族、妻の姉弟が訪ねて来て、犬達は大喜びだった。
客が来ない日は車で30分程の大型ショッピングモールで買物、ゴルフ打ち放しで汗をかいた。あっと言う間の2週間だった。
 連休明けは2日に分けて東京の友人達(仕事関係、F社勤務時代の同期、同寮、中国南京時代の友人)の4グループと昼食、夕食で情報交換、昔話に杯を傾けながら話に花が咲いた。現役もおり、ビジネス環境の厳しさ、震災後の各社、各自の取り組みを話し合った。私の人的ネットワークで今後とも彼らへの支援、彼らかの支援等で交流関係を発展させて行くつもりだ。

 昼食後の夕食までの待ち時間は紀伊国屋書店で探してた本を求め、又、何時も行ってる御徒町将棋センターで頭の体操、何時もの新宿将棋センターには今回は行けなかった。又、南京時代の東京で働く中国人友人と談話した。

 福島に戻ったら、直ぐに家庭菜園のじゃが芋の発芽、豆類の様子を見に行くつもりだ。又、今月末の「絵と戯れる会」の発表会出品作品の
仕上げに取り組む。又、地域活動の幹事をしてる総会への出席、今回、息子の静岡浜松の友人のプロの演奏家、レストラン経営者の福島避難所での演奏会、炊き出しボランテイア実現支援の準備等、忙しく成る。

2011年5月12日木曜日


福島原発事故対応、被災地、避難者への復興、ボランテイア対応で、多くの批判、評論が出てますが、本当の対応は自分の目で確認した上での、相手本位の対応が必要で、机上の空論と成らぬよう、自己を戒める文章を見つけました。


倒産の危機に瀕していたWOWOWを短期間で再建した
   松下電器産業元副社長・佐久間昇二氏

       「君はそれ、自分で確かめたんか?」
       

 私が松下幸之助という偉大な師とお会いしたのは、
 二十八歳の時でした。
 組合活動をしながら、大阪本社の企画本部調査部で
 仕事をしていた頃です。
 ある時、幸之助さんが新聞広告に出ていた
 某ミシン会社の貸借対照表を見て、
 現金を非常に多く保有していることに驚かれ
 その理由を調べるようにと指示がありました。
 調査をしたところ、その会社では、
 消費者が購入したいミシンを積み立てで販売する
 「予約販売制度」を取っていたことが分かりました。
 私はその報告書を上司に渡して
 用件を済ませたつもりでいましたが、
 幸之助さんは私に直接説明に来るように言われました。
 当時、会長だった幸之助さんは、
 松下正治社長と高橋荒太郎副社長とで、
 重要事項を決済する三役会議を開いておられました。
 まだ入社四年目だった私が恐る恐る部屋に入ってみると、
 幸之助さんが非常に話しやすい雰囲気を
 湛えておられることにまず驚きました。
 幸之助さんはその予約制度を
 松下でもやりたいと考えておられましたが、
 私は一通りの報告をした後で

 「やるべきではありません」
 と結論を述べました。
 幸之助さんはじっと話を聞いておられましたが
 「君はそれ、自分で確かめたんか?」
 と言われました。
 つまり、調査会社にやらせたのではなく、
 自分の目と耳と足で確かめたのかと。
 私が「全部自分で確認しております」
 と答えたところ、
 「そうか、それは結構や。
  ところで君、そのミシン会社は一流やろ。
  その一流会社がやってることを、
  うちがやったらなぜあかんのや」
 とおっしゃいました。私は
 「一流会社がやっているからいいと言うのではありません。
  この制度を採用することが一流会社として
  本当にふさわしいものかどうかで判断してください」
 と述べました。すると幸之助さんは
 「よし、分かった。やめとこう」
 と即断されたのです。
 驚いたのはこちらです。
 普通なら「後は我々で預かるから」と
 いうふうになるものでしょう。
 幸之助さんがそうでなかったのは、
 実際に現場を見てきた者に対する信頼と、
 もう一つは経営者としての「勘」ではないかと思います。
 その予約制度は顧客との契約を巡るトラブルが多く、
 新聞沙汰になっていたことがよくありました。
 松下としては消費者に対して
 少しでもご迷惑を掛けるようなことはやるべきではないし、
 ミシンの普及が進んで価格が下がれば
 その制度自体が成り立たなくなる。
 長い目で見れば決してよい制度ではないということを感じられ、
 さっと決断を下されたのでしょう。
 その時につくづく感じたのは、
 私が自分で現場を歩き、自分で確かめて結論を出したのが、
 信用を得る根拠になったということです。
 現場には宝物が落ちているといわれますが、
 絶えず現場を確かめることの大切さをこの時、
 身を持って知りました。
 また当時から私の根本にあったのは、
 社長や上司を間違わせたくない、
 会社として正しい判断をしていただきたいという思いでした。
 自分が提言することは会社にとって正しい、
 と自信を持って言えるかどうか。
 そうでなければ本当の意味で
 仕事をしているとは言えないでしょう。