2011年5月31日火曜日
2011年5月30日月曜日
2011年5月29日日曜日
「時間のものさし」
林雄二郎(日本フィランソロピー協会顧問・トヨタ財団元専務理事)
時間を測るものさしは無数にある。
そのものさしを使って物事を考えることが大切だ――。
そのことを教えてくれたのは、 文化人類学者の梅棹忠夫君だった。
彼と初めて出会ったのは、大阪万博の頃だったろうか。
昭和十七年、総理府の技官になった私は、
戦後、経済安定本部や経済企画庁で
日本経済の復興のため力を尽くしていた。 終戦直後、片山内閣から経済復興計画の策定
という第一課題を与えられた我々は、
三か年計画や五か年計画を立て、実行に当たっていたのである。
昭和四十年、経済企画庁経済研究所の所長時代に、
二十年後の社会を予見して書いた私の文章は、
「林リポート」と呼ばれ、 日本社会を発展させるためのガイドラインとして
扱っていただいた。 同庁では、二か年計画を中期計画、
五か年計画を長期計画と呼んだが、
私のリポートは「超長期計画」といわれるものだった。 その後、長年にわたる役所勤めに終止符を打った私は、
五十一歳で東京工業大学の教授となった。
その頃梅棹君との出会いの機会があり、
私は目を開かされるような思いをしたのである。
ある時のことだった。
梅棹君と議論をしていると、彼が
「こういうことをいまのうちにちゃんと考えておかないと、
人類はまもなく滅びるな」
と深刻そうな顔で言う。
これは大変なことだと思い、
「それは何年後のことだ?」
と尋ねると、梅棹君は
「そうだなぁ、五千万年ももてばいいほうだ」 と言うのである。
それまで経済企画庁にいて、三年先や五年先を見越した
計画を策定してきた私には、気が遠くなるような話だった。
ところが当の本人は、冗談で言っているのでも何でもなく、
それが本当に心配でならないといった表情をしているのである。
その時に私は、あぁ、この人の持っている時間のものさしは、
我々とは違うのだ。時間のものさしは一つではなく、
無数にあるのだと感じたのである。
そうやって長い時間のものさしで
物事を考えるように仕付けている人には、
千年、二千年というものさしで世の中の変化を
見ていくことができるのだろう。
梅棹君にとっては、五千万年後が「まもなく」なのだ。 我々には雲をつかむような話でも、
彼の目には人類が滅んでいく姿がイメージとして
はっきり描けているのではないかと感じた。
こちらも同じ時間のものさしで
一緒に考えなければ話ができなくなると考えた私は、
一所懸命心の訓練をした。
すると彼の言葉が決して世迷言などではなく、
だんだんと真実味をもって迫ってくるようになったのである。
五千万年後の世界は私にとって、空想上のものではなくなった。
その考え方は昭和四十六年、私が未来学を主唱し、
日本未来学会を旗揚げする際にも大いに役立った。 「未来学」といえば「○年後の△△」や 「二十一世紀の××」はどうなるかといった類のことを
考えがちだが、私の考え方はそうではなかった。
未来を考えることは現在を考えること。
未来学とは現在学である――。
つまり、身の回りにある変化の兆しを
いかに現在の中に見つけるか。
その変化の兆候のことを私は「未来からの呼びかけ」と名づけ、
その声に応えていくことが未来研究であるとした。
学会の設立からまもなく、豊田英二氏がトヨタ財団を設立し、
私はその専務理事を任された。 財団の仕事は様々な団体に資金の援助や助成を
行ったりするものだが、いずれも皆、
将来のために行う事業である。
その将来とは、十年先や百年先のことであるのだが、
私は時間のものさしを数多く持っていたおかげで、
伸縮自在に物事を考えることができた。
すべて梅棹君のおかげである。
梅棹君は何十年も前から、
南極大陸の氷が溶けて地球の温暖化が進むことを予見し、
仲間たちと盛んに議論をしていた。
当時の私にはあまりピンとこなかったが、
現にいま世界ではそうした現象が起こっている。
そんな話は自分たちには関係ない、
まだまだ先のことだろうと我々が見過ごしてきたことの ツケが回ってきたとも言えるだろう。
このままの状態が続けば、梅棹君の言うとおり、
人類の滅亡は避けられないだろう。
何億年か後、まったく別の生物が地球上に現れるとすれば、
彼らは人類の化石を発掘していろいろな調査をするかもしれない。
この人類という生物は、
未曾有の「文明」というものをつくり上げ、
驚くべき発達をさせた。
けれどもその文明を発達させすぎた結果、
その文明によって自分たちを滅ぼしてしまったのだ。
他の生物に比べて抜きん出て利口だと感じる部分があるかと思えば、
他の生物より抜きん出てバカだったとも言える。
利口なのかバカなのかまったくもって分からない、
しかもそれを少しも自覚できなかったという、
いよいよもって不思議な生物、それが人類、
とでも説明がなされるだろうか。
人間は過ちばかりを繰り返す存在だが、
物事を一所懸命に考えることができる。
だからできるだけ長い時間のものさしを使って、
未来からの呼びかけに耳を澄ませてほしい。
それが今年九十二歳を迎えた私からの切なる願いである。
今朝の朝刊の福島民友新聞に先日の取材記事が「感性光る技法の絵画」のタイトルで掲載された。
2011年5月28日土曜日
2011年5月27日金曜日
2011年5月26日木曜日
今日から「絵と戯れる会」の絵画展が福島市のパセオ通りの福信ギャラリーで開催しました。私の仲間の今回は11名の作品発表で、平成元年に発足し、今年は17回目の発表会である。
2011年5月22日日曜日
2011年5月17日火曜日
2011年5月14日土曜日
by teamnakagawa
飯舘村にも入って、住民の皆さんのお気持ちを伺い、菅野村長と面談もさせて頂きました。東京では見えなかった多くのことに気づかされました。とくに、菅野村長との面談や、特別養護老人ホーム(いいたてホーム)訪問などを通して、現場が直面する問題を知ることができました。今回は、とくに、飯舘村の特別養護老人ホームについて、当チームの見解をご紹介します。
福島県飯舘村は、福島第一原発事故の影響で「計画的避難区域」に指定され、5月下旬をめどに避難を求められています。国から村民の避難を求められていることに対して、菅野村長は、「国に対して村民一人ひとりの実情に合った、きめ細かく、柔軟性のある対応」を求めています。
村長との面談に先立って、同村草野地区で、数名の方からもお気持ちを伺いましたが、たとえば、同じ農家でも、家畜がいるかどうかで、避難に対する感覚は違いました。「家畜は家族の一員。避難しても、毎日世話が必要」、「なじみのない土地に行けば、人間も大変だが、牛も大変。出る乳の量も半分になってしまう」といった声が印象的でした。
当方からも、「妊婦、赤ちゃんについては避難することもやむをえないが、放射線積算推定量を見る限り、成人についての発がんリスクは、野菜不足や塩分のとりすぎより低く、極端に恐れる必要はないと思います。それより避難生活などによるストレスなどの方が心配です」などと見解を述べました。
実際、致死性の発がんの危険は、100ミリシーベルトで、最大1.05倍と見積もられますが、これは野菜不足によってがんになりやすくなるリスクとほぼ同程度です。塩分とりすぎは、約200ミリシーベルトの被ばくに相当しますし、運動不足や肥満は、400ミリシーベルト程度の被ばくと同じレベルの発がんリスクです。毎日3合お酒を飲んだり、タバコを吸ったりすれば、発がんのリスクは一気に1.6倍となりますが、放射線被ばくで言えば、2,000ミリシーベルト!に相当します。
菅野村長は、村民に向けたがんの啓発の必要性にも理解を示され、今後、村民向けに、当チームの協力のもと、放射線被ばく問題と健康に関する講演会などを開催し、「村民の不安を軽減したい」と応じてくださいました。
(放射線被ばく(積算値)がある量を超えた場合、憂慮されるのが「発がん率の増大」です。私たち「東大病院放射線治療チーム」が「がん啓発」のための講演会等のご提案をしたのは、そもそもがんという病気について、いまだ日本では十分に理解されていない、と考えるからです。今回は割愛せざるを得ませんが、「がんの基本的な知識」を身につけることが、がん大国日本では必須だと考えています。機会があれば、このBlogでもご説明したいと思います。)
菅野村長は、また、村民同様に避難を求められている特別養護老人ホームの入居者らについて、「ばらばらに避難して体育館などの避難所で暮らすより、ホーム施設内に留まっていた方が、本人たちにとっていいのではないか」と語ってくださいました。この言葉を受けて、3名の医師で、特別養護老人ホーム「いいたてホーム」を訪問しました。
突然の訪問でしたが、三瓶政美施設長に詳しくご案内、ご説明をいただきました。ホームは、村役場にすぐ隣接していますが、これまで、中央からの政治家やメディアの訪問は皆無だそうです。(4月29日の当チーム訪問時点)
入居者は、現在107名、定員は入居120名・ショートステイ10名です。職員は定員130のところ現在110名勤務。避難の恐れがなければ、在宅の方も受け入れていけますが、いまのところ受け入れができない状況です。
入居者の平均年齢は約80歳、100歳以上の方もいます。ユニット型のケアを実施しており、ユニット内(10名程度)には家族のような絆ができています。入居者のうち、車イスが60名、寝たきりが30人(経管栄養:15人)で、終末期の利用者も2~3名おられました。震災後も3名が施設内で、家族、看護職員・介護職員に看取られ死亡しています。
胎児、小児の放射線感受性が高いのと反対に、高齢者の場合は、同じ量の放射線被ばくでも、発がんのリスクは高くなりません。被ばくから、発がんまでに多くの場合、10年以上の年月がかかるからです。医師の立場からも、80歳以上の高齢者の避難はナンセンスと言えます。
施設内の放射線量は、どこも1マイクロシーベルト/時以内(鉄筋コンクリート作り)。入居者は屋外には出ることができないため、年間被ばくとしても、10ミリシーベルト以下です。家族といってもよい入居者がばらばらになり、慣れない他の施設へ行って、ストレスを抱えて生活するデメリットは大きく、避難を進めることは“正当化”されないと思います。
施設が存続した場合、施設職員の被ばくが問題になりますが、三瓶所長や相談員の方が、24時間測定した「個人被ばく線量」から推定される年間被ばく量は、7.5~10ミリシーベルト程度で、やはり容認できるレベルです。
住民の個別性を重視した避難を考える上で、象徴的なケースと言えましょう。柔軟な対応を求めたいと思います。
2011年5月12日木曜日
福島原発事故対応、被災地、避難者への復興、ボランテイア対応で、多くの批判、評論が出てますが、本当の対応は自分の目で確認した上での、相手本位の対応が必要で、机上の空論と成らぬよう、自己を戒める文章を見つけました。
倒産の危機に瀕していたWOWOWを短期間で再建した
松下電器産業元副社長・佐久間昇二氏
「君はそれ、自分で確かめたんか?」
私が松下幸之助という偉大な師とお会いしたのは、
二十八歳の時でした。
組合活動をしながら、大阪本社の企画本部調査部で
仕事をしていた頃です。
ある時、幸之助さんが新聞広告に出ていた
某ミシン会社の貸借対照表を見て、
現金を非常に多く保有していることに驚かれ、
その理由を調べるようにと指示がありました。
調査をしたところ、その会社では、
消費者が購入したいミシンを積み立てで販売する
「予約販売制度」を取っていたことが分かりました。
私はその報告書を上司に渡して
用件を済ませたつもりでいましたが、
幸之助さんは私に直接説明に来るように言われました。
当時、会長だった幸之助さんは、
松下正治社長と高橋荒太郎副社長とで、
重要事項を決済する三役会議を開いておられました。
まだ入社四年目だった私が恐る恐る部屋に入ってみると、
幸之助さんが非常に話しやすい雰囲気を
湛えておられることにまず驚きました。
幸之助さんはその予約制度を
松下でもやりたいと考えておられましたが、
私は一通りの報告をした後で
「やるべきではありません」
と結論を述べました。
幸之助さんはじっと話を聞いておられましたが
「君はそれ、自分で確かめたんか?」
と言われました。
つまり、調査会社にやらせたのではなく、
自分の目と耳と足で確かめたのかと。
私が「全部自分で確認しております」
と答えたところ、
「そうか、それは結構や。
ところで君、そのミシン会社は一流やろ。
その一流会社がやってることを、
うちがやったらなぜあかんのや」
とおっしゃいました。私は
「一流会社がやっているからいいと言うのではありません。
この制度を採用することが一流会社として
本当にふさわしいものかどうかで判断してください」
と述べました。すると幸之助さんは
「よし、分かった。やめとこう」
と即断されたのです。
驚いたのはこちらです。
普通なら「後は我々で預かるから」と
いうふうになるものでしょう。
幸之助さんがそうでなかったのは、
実際に現場を見てきた者に対する信頼と、
もう一つは経営者としての「勘」ではないかと思います。
その予約制度は顧客との契約を巡るトラブルが多く、
新聞沙汰になっていたことがよくありました。
松下としては消費者に対して
少しでもご迷惑を掛けるようなことはやるべきではないし、
ミシンの普及が進んで価格が下がれば
その制度自体が成り立たなくなる。
長い目で見れば決してよい制度ではないということを感じられ、
さっと決断を下されたのでしょう。
その時につくづく感じたのは、
私が自分で現場を歩き、自分で確かめて結論を出したのが、
信用を得る根拠になったということです。
現場には宝物が落ちているといわれますが、
絶えず現場を確かめることの大切さをこの時、
身を持って知りました。
また当時から私の根本にあったのは、
社長や上司を間違わせたくない、
会社として正しい判断をしていただきたいという思いでした。
自分が提言することは会社にとって正しい、
と自信を持って言えるかどうか。
そうでなければ本当の意味で
仕事をしているとは言えないでしょう。