2013年2月25日月曜日

昨日から降り続いた大雪は今朝は快晴の天気となった。

毎朝の”やまと、みんと”の散歩は彼らは雪が大好き、雪が鼻についても我関せず、こちらは歩くのも大変。寒い!!

2013年2月21日木曜日

映画『ゼロ・ダーク・サーティ』 - オリジナル予告編 (日本語字幕)




 何時もの福島フォーラムで観た。テロの多発、原発の再稼働、人

間の生きる道を見失った世界。

世界ではテロが収まることが無い。アメリカを標的とした9.11テ

ロの首謀者オサマ・ビンラディン捕縛までのCIAの克明な調査内

容と、準備、訓練周到な首謀者襲撃、殺害場面は圧巻でした。

しかし、今でもテロは新たに勃発しており、暴力は暴力による報

復では決して解決しない。

 暴力への抵抗はマララ・ユスフザイさんのような、ガンジーを偲ばせる、人間本来の純粋な精神へ訴える厳かな平和運動しか方法が無いのかも?人間は容易な自己保存の本能による利己的な心に囚われ、奴隷と成り下がる。常に慈愛に満ちた利他的な心を高め、力強く生きることの大切さを考えさせられた映画だった。


http://zdt.gaga.ne.jp/


ゼロ・ダーク・サーティ


米アカデミー賞6部門を受賞した『ハートロッカー』の監督と脚本家が描く衝撃の問題作。9.11アメリカ同時多発テロの首謀者オサマ・ビンラディン捕縛・暗殺作戦の裏側に隠された驚愕の真実が明らかに!?本年度アカデミー賞最有力との呼び声高い衝撃作


 


マララ・ユスフザイ

「パキスタンのタリバン運動(Tehreek-e-Taliban PakistanTTP)」から銃撃を受けて頭部に重傷を負った同国のマララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)さん(15)が、今年のノーベル平和賞候補に指名されたことが明らかになった。推薦の締め切りだった1日、候補者を指名できるフランスとカナダ、ノルウェーの国会議員らが明らかにした。

2009年、11歳の時に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)の支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBC放送ウルドゥー語ブログにペンネームで投稿してターリバーンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、欧米から注目された[3][4]
同年、TTPがパキスタン軍の大規模な軍事作戦によってスワート渓谷から追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表し、「勇気ある少女」として表彰した。その後、パキスタン政府主催の講演会にも出席し、女性の権利などについて語っていたが、この事によってTTPから命を狙われる存在となる。

 





収容所内に美術学校を設立した、小圃千浦。




 福島は大震災、原発事故で多くの被災者が各地の仮設住宅に避難しており、内、希望を見失い、既に21名の方が自死されている。

 太平洋戦争時のアメリカ在住の日系人12万人が各地の仮設収容所へ強制連行された。その過酷な収容所で決して諦めない、明日の世代に希望を繋ぐ子供達の教育を意識し、自己を見据え、日本人としての誇り、人間の尊厳を守り抜いた、知恵、芸術作品が子供達の健全育成施設の福島のこむこむ館で展示開催された。

 今日、作品を一点、一点、鑑賞した。何も無い、収容所でどの様な材料、どの様な方法、どの様な想いで作品作りをしたか、丁寧に鑑賞した。作品は真剣な想い、誠実な姿勢、明日を観る力強さが感じられた。

 日々の暮らしでともすると、怠惰な生活に流れんとする我が身への叱咤激励を強く感じた。今の不満、言い訳は取るに足らぬ小さなことだと改めて気付かされた衝撃的な展示会でした。


異境の日本画家 小圃千浦

1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発。アメリカ西海岸の日系人は敵国人と見なされ、12万人が各地に作られた仮設収容所に連行された。56歳の小圃も家族と共に住まいをおわれた。競馬場を改造したタンフォラン仮収容所。泥と藁まみれの粗末な馬小屋に何人もが押し込められた。自由、財産、最低限の誇りさえ失い、人々は絶望に打ちひしがれる。

そんな時、無邪気に兵士と戯れる子供の様子を見た小圃は、ひとつの決心をする。幼い子供たちはこれから将来の知識を学ばなくてはいけない。

彼が思い立ったのは収容所に美術学校を作ることであった。この計画を実現する為に当局と粘り強く交渉を重ねた。しかし、多くの日本人ですら、「非常時に美術がなんの役に立つ」とその計画に反発した。それでも彼は信念を変えず「どんな環境にあっても教育は食べ物と同じように大切である。芸術を学ぶことは、建設的で芸術教育は平和につながる」と考える。

彼は自由を失い、絶望に打ちひしがれた人々に生きる希望を与えようと挑んだ。日本人の心を癒すため、収容所内で美術学校を設立し、日本人の人権と生活向上のために尽力する。


2013年2月19日火曜日

以前、NHKで放映されました。日系人でありながら、アメリカ人として勇敢に参戦し、捕虜と成ったが、人間の尊厳を忘れない武士道の日本人がそこにはいた。感動し、涙した。彼らの素晴らしい作品が福島で展示される。是非とも観に行きます。

【会期】 平成25年2月9日(土)~3月11日(月)
【会場】 こむこむ館
【主催】 こむこむ館、NHK福島放送局


1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた[3]。部隊名は第442連隊である。

その国の国民になったならば、その国に忠誠を尽くす。たとえ差別を受けても、蔑まれても。恥ずかしい姿を晒したくない。




尊厳の藝術展―The Art of Gaman―
開催中
ロゴスペース
平成24年は日系人の強制収容から70年の節目を迎えます。この機会に、太平洋戦争中アメリカ西部で強制収容された日系人が制作した美術工芸品を集めた展覧会を開催します。困難の中でも人間の尊厳を失わなかった日系人の作品を通じて震災から復興する日本と日本人を見つめる機会としたいと考えます。
2012年5月11日


English Page
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尊厳の藝術展―The Art of Gaman―


はじめに

太平洋戦争中のアメリカ合衆国で日系アメリカ人の強制収容が始まって70年の節目を迎えます。本展覧会で紹介する作品は、砂漠等に建てられた強制収容所の中で、限られた材料と道具をもとに作られた美術工芸品や日用品の数々です。作品に施こされた見事な装飾や優れた造形からは、生活を少しでも豊かにしようとする日系アメリカ人たちの尊厳が感じられます。本展を通じて、厳しい環境の中で優れたものづくりに取り組んだ日系アメリカ人たちの“不屈の精神”や“創造性”に触れていただければ幸いです。主催者

本展について

この展覧会タイトルから皆様はどのような内容を想像されるでしょうか。ここに展示される作品は、ほとんどが大家の作品でもありませんし、贅沢な材料で作られたものでもありません。これらは、第2次世界大戦中に強制収容された日系アメリカ人たちが、収容所での厳しい生活環境の中で、道具から材料にいたるまで創意工夫をこらしながら、精魂込めて作り上げた品々なのです。<br>我が国は世界に誇れるすばらしい技術を持っていました。一例をあげれば、戦国大名が覇権を競った時代に、種子島に伝わった鉄砲を国産化して量産できるだけの潜在的な力がすでにあったのです。そのような技術は平穏な江戸時代にさらに発展して、明治時代の殖産興業や第2次世界大戦後の驚異的な復興を支えた下町の職人たちに受け継がれました。また、日本画や伝統工芸品などにも洗練された技術が継承されています。しかし今、そのよき伝統に陰りが出てきています。豊かな時代の中で便利な道具機器に恵まれた私たちは、東日本を襲った大震災を経験して、高度文明の意外な脆さを知らされました。我らの同胞が70年前に、厳しい生活の中で、粗末な素材から手作りで生み出したこれらの「心のこもった」作品は、現代の私たちが忘れかけている何かを伝えてくれているように思います。<br>薩摩雅登(日本展監修 東京藝術大学教授)

               第1章生活に必要なもの アメリカ西海岸沿州で生活していた12万人以上の日本人移民と日系アメリカ人は、1942年2月の大統領令9066号によって、家や家財道具を整理するひまもなく、手荷物ひとつで強制収容所に送られました。内陸部の砂漠の中など世間から隔離された収容所内の住宅は「バラック」と呼ばれた粗末なもので、個人のプライバシーもない狭さで、砂塵などが吹き込むこともありました。その中での最初の頃の生活は必要最低限の家具と食事だけが保証された貧しいものでした。そのような環境の中で、人々は乏しい道具と材料を使って机、椅子、籠、棚などの日常の生活に必要なものを作っていきました。しかし、そのような質素な生活用具の中にも、大きさや形が工夫された籠、それぞれに個性的な棚や引き出しなどに、創意工夫と丁寧な作業という「ものづくり」の原点が認められます。



          第2章 生活を彩るもの  人々は柵や鉄条網に囲まれた強制収容所の外に出ることは原則としてできませんでしたが、収容所内の移動は比較的自由で、次第に各種作業所、教育施設、畑なども整備されてきました。しかし生活は単調で、目を癒やすものもなく、スポーツや遊技の道具にも不自由していました。若い人たちや子供には仕事や勉強がありましたが、年配で英語が不得手な日系一世にとっては退屈で辛い日々でした。そのような人たちが手作業でコツコツと作り上げたのがこれらの置物、装身具、遊び道具などです。土中深くから掘り出した貝などで作った装身具の緻密さ、朽木や廃材から掘りだした置物などの出来映えは素晴らしく、とりわけ動物や鳥の躍動感と表情は本物を目の前にして作ったかのようです。道具や材料が粗末でも、想像力を豊かに精魂を込めれば、人はこれだけの作品を作ることができるのです。 
            第3章 生活の記録 収容所内にカメラを持ち込むことは、一部に例外的に黙認されたことはあったようですが、ほとんど禁止されていました。そのために、アメリカ側が撮影した公的な写真などはあっても、強制収容所内での暮らしの実態を生き生きと伝える画像は乏しく、戦後のアメリカでもその真実はあまり知られていませんでした。しかし人は絵を描くことができます。子供が描いた純真で真摯な絵を見ればわかるように、絵を描くという創作行為は自分の目に見えるもの、あるいは、自分の身の廻りのものを描くことから始まります。多少の絵心がある大人たちが収容所内の生活や活動、そこから見える風景樹木を描いたこれらの絵画やスケッチは、たとえ意識的に収容所を記録することを意図した作品ではなくても、今日では収容所内での暮らしを知る貴重な歴史資料になっています。
             第4章 故国の文化  日本とアメリカは交戦状態で、収容所から出ることもできない人たちにとっては、再び故国日本に帰ることは絶望的だったかもしれません。しかし、日本人移民はもちろん日系アメリカ人も故国日本の文化と伝統を忘れることはありませんでした。ここにある手作りの仏壇、木製の刀、茶道具、着物姿の人形などの中から、厳しい生活の中でも自分たちのルーツを忘れない人間の心意気と尊厳が伝わってきます。1945 年の終戦によって強制収容の必要はなくなり、収容所は次々と閉鎖されました。人々は再び手荷物だけを持って帰宅を許されましたが、そこでも生活の基盤は破壊されていて、もう一度最初から出直す厳しい生活が待っていました。その手荷物の中にあり、新たな生活の中でガレージ等の奥でひっそりと眠っていたのがこれらの作品です。今日では、たとえ高価で贅沢なものではなくても、御遺族・御子孫の方々の大切な宝物になっています。 



強制収容について

メッセージ

関連サイト




作品写真:
  Photos by Terry Heffernan. Reprinted from
   "The Art of Gaman: Arts and Crafts from the Japanese American Internment Camps, 1942-1946"
     by Delphine Hirasuna, Ten Speed Press, c. 2005"




【 巡 回 展 情 報 】
東京展【会期】 平成24年11月3日(土・祝)~12月9日(日) 《 終了しました 》
【会場】 東京藝術大学 大学美術館
【主催】 東京藝術大学大学美術館、NHK
福島展【会期】 平成25年2月9日(土)~3月11日(月)
【会場】 こむこむ館
【主催】 こむこむ館、NHK福島放送局
仙台展【会期】 平成25年5月5日(日・祝)~5月18日(土)
【会場】 せんだいメディアテーク
【主催】 NHK仙台放送局
沖縄展【会期】 平成25年6月1日(土)~6月30日(日)
【会場】 浦添市美術館
【主催】 NHK沖縄放送局
広島展【会期】 平成25年7月20日(土)~9月1日(日)
【会場】 広島県立美術館
【主催】 広島県立美術館、NHK広島放送局

2013年2月17日日曜日



 東京電力より自主的避難等に係る損害に対する追加賠償を受領した。

第一次に続いての2回目の賠償である。私は放射能に苦しむ精神的慰謝料として受領した。私には比べようの無い、深刻な苦しみを味わう多くの家族が居る。家族が今でもバラバラに成り、避難してる知り合いが多くいる。

 この賠償金を自己を見直す為に活用すべく、近くの教育センターでの3泊4日の講座を受講した。今回も多くの新たな出会いが有った。今回の大震災をどのように受け止めて、生かされた我が身を少しでも回りの苦しんでいる方々へ寄り添うかの勇気を鼓舞された。

2013年2月13日水曜日



心に響く小さな5つの物語 (小さな人生論シリーズ)


イチロウの原点

常に自己を見つめ謙虚な姿勢で、明日を見つめ、努力を怠らない、他を思いやる素晴らしい生き方に感動しました。

昨日、「心に響く小さな5つの物語」を読んだ。イチロウの目標を見据えた姿勢とそれへの努力、他を思いやる。下記の彼の小学時代の作文。

今日、日経新聞に彼の現在の心境が語られていたのは奇遇か?
40歳に成る現在のその姿勢の原点は小学生の時の想いからぶれて無い。
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「心に響く小さな5つの物語」
僕の夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校と全国大会に出て、活躍しなければなりません。
活躍できるようになるためには、練習が必要です。 僕は3才の時から練習を始めています。
3才から7才までは半年くらいやっていましたが、3年生の時から今までは、365日中、360日は激しい練習をやっています。
だから、1週間中で友達と遊べる時間は、5~6時間です。そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球の選手になれると思います。
そして、中学、高校と活躍して、高校を卒業してからプロに入団するつもりです。
そして、その球団は、中日ドラゴンズか西武ライオンズです。ドラフト入団で、契約金は1億円以上が目標です。僕が自信のあるのは、投手か打撃です。  
去年の夏、僕たちは全国大会に行きました。
そして、ほとんどの投手を見てきましたが、自分が大会NO1選手と確信でき、打撃では、県大会4試合のうち、ホームラン3本を打ちました。
そして、全体を通した打率は5割8分3厘でした。このように、自分でも納得のいく成績でした。
そして、僕たちは、1年間負け知らずで野球ができました。
だから、この調子でこれからも頑張ります。 そして、僕が一流の選手なって試合に出られるようになったら、 お世話になった人に招待券を配って、応援してもらうのも夢の一つです。とにかく、一番大きな夢は、プロ野球の選手になることです。



3月13日 日経新聞

■誰かの「ために」より
■誰かを「思って」戦うチーム
 「常に挑戦し続けている」というイチローが選んだ舞台がニューヨークだ。昨夏、電撃的に移籍した名門ヤンキースと改めて2年契約を結んだ。
 「ヤンキースでは『勝つこと』が使命であり大前提だ。加えてファンは勝つことだけでなくプロフェッショナルなプレーを見たがっている。これは僕にとってとてつもない力になる」
 「あれだけのスーパースターが集まっているにもかかわらず選手のエゴが一切見えてこない。向かう方向が極めてシンプルでとても気持ちの良い環境だ」
 しかしヤンキースの「ために」戦うのではない。大切にしているのは「思い」だ。
 「『何かのために』は聞こえは良い。でも時に思い上がっているようにも思える。人間関係においても言えることだが、誰かの『ために』やろうとすると厄介な問題になることがある。しかし、誰かを『思い』何かをすることには、見返りを求めることもなく、そこに愛情が存在しているから不幸な結果になることが少ないように思う。昨年の3カ月だけだったが、ヤンキースは『思い』を強く持たせてくれた組織だった」
 思いが結実したプレーがある。昨季のア・リーグのプレーオフ地区シリーズ第2戦。敵失で出塁したイチローは4番カノの二塁打で一塁から一気に本塁に突入。ここで「常識」を覆す行動が飛び出した。
普通なら、加速してそのまま突っ込むところ、イチローが選んだのは別の方法だった。
 「(セーフになる)可能性があるとしたら、スピードを緩めるしかない。(相手のウィータースは)頭のいい捕手なので、予測できない動きをすることでしか可能性は生まれない。相手の頭の中をちょっとした混乱状態に誘導するしかなかった」
捕手のタッチを2度かわし生還。「忍者」と呼ばれた(2012年10月)=AP
捕手のタッチを2度かわし生還。「忍者」と呼ばれた(201210)=AP

 ブレーキをかけたイチローは本塁前で腰をひねって捕手のタッチをすり抜け右に回り込む。2度目のタッチもかわしてホームに触れた。「忍者」と言われた本塁突入だった。
 「僕の中で印象に残るプレー。単にフィジカルだけではなくて心理の戦いも含んでいた。アウェーだったので(球場で起きたのは)歓声ではなくどよめきだったが、あれは快感だった」
 レギュラーが保証されているわけではない。厳しい生存競争に臨む武器はプロフェッショナル意識の高さだ。
 「努力をすれば報われると本人が思っているとしたら残念だ。それは自分以外の第三者が思うこと。もっと言うなら本人が努力だと認識しているような努力ではなく、第三者が見ていると努力に見えるが本人にとっては全くそうでない、という状態になくてはならないのではないか」
 「子供の時の感覚で楽しくて好きでいたいのならプロになるべきではないだろう。もちろん、違う種類の楽しみややりがいはたくさん生まれるが、プロの世界では楽しい時など瞬間にすぎない。ほとんどはストレスを抱えた時間だ。しかしその『瞬間』のために、ありったけのエネルギーを費やしていく。その中で、人間構築をしていかなくてはならないと考えている」
 マリナーズ時代は200本安打という目標を掲げていた。
 「実際にそれを目標に掲げていたのは2008年ぐらいまでだと記憶している。その後口にしなくなったのはそれが『達成したい目標』から『達成しなくてはいけない目標』に変化したからだ。続けていくことの難しさを痛感する中でそれまで誰もやっていなかった10年連続200本安打を達成できたことで気持ちに一区切りついた、ということもある」
100の力を70に見せる
 大リーグでのプレーも今年で13年目。日本でのプレー年数(9年)を上回っている。メジャーでも数々の記録を打ち立てたイチローの目には日米の野球がどう映るのか。
 「米国の野球は『力対力』というイメージがあるがそれはイメージでしかない。力の意味が『能力』であればその通りだと思うが、大体は力は『パワー』と同義語になっているように感じる。とにかく相手の欠点を突いてくる。こちらが克服できなければ永遠にそうしてくるだろう」
 文化、習慣の異なる中で勝負の世界に身をおいてきた。意識してきたのは己を貫くことだった。
 「米国、南米出身選手の主張は強い。70(の力量)を100に見せて威圧する。僕が大事にしているイメージは全く反対で、100あるが70から80にしかみせない。それで実際には(相手を)ボコボコにする。そんなアプローチの方が楽しいし、見る人も面白いのではないか」
 「今はまだ色紙に一言と言われても書けない。大切にする姿勢や哲学はあるが胸を張って一言残せるほどの自分ではない。偉人の言葉を引用する年配の方がいるがあれはダサいと思う。拙い表現でも将来自分の言葉で伝えられたらなと思う。しかし結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰が』に値する生き方をしたい」
■WBC、命削った勝ち越し打
 レギュラーシーズンだけでも日米通算で1万2000回以上もバッターボックスに入った中で「思い出したくない」という打席がある。2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝、対韓国戦。延長十回2死二、三塁で不振が続いていたイチローが打席に立った。
WBC連覇に導いた決勝打(2009年3月)=共同
WBC連覇に導いた決勝打(2009年3月)=共同
 「敬遠ならどんなに楽だろうと思った。そんなふうに思ったことは初めてだ。この打席で結果を出せなければ、今までの僕は全て消される、と思った」
 「恐怖に震え上がっていた」という中で2連覇を決める中前2点打を放つ。代償も大きく、胃潰瘍を発症。大リーグ入りして初の故障者リスト入りも経験した。
 「今後、どんな場面があろうともあの打席以上はないのでは、と想像している。野球をやりながら『命を削る』という意味を初めて知った瞬間だった」
■理解苦しむ「定年」
 10月に40歳を迎える。野球界では大きな節目とされる。
「野球界には、40歳で定年みたいな価値観がいまだになぜか残っている。その現状が僕にとってはクエスチョンだ。様々なことが前へ進んだ中で、40歳定年の思考は理解に苦しむ。食生活、住環境、野球をとりまく環境、トレーニングの発達、道具の進歩など、昔とは比較できないほど進んだ。選手寿命だけが進まないと考えるのは、その人たちの思考が止まっているように思えてならない。彼らは僕がこう言うときっとこう言うだろう。『若いくせに生意気だ』」
 「個人競技だとしたら、今の状態で引退を考えることはあり得ない。ただ団体競技なのでポジションが限定される。純粋な能力ではなく年齢だけを見て省かれるという理不尽なこととも戦っていくことになる」
 常に高いモチベーションを持って挑戦し続けてきた。
 「僕はずっとエネルギーを注いできたものに携わっている。最も大変なことは自分が好きでもないことをやらされて、それを好きになれと言われ、結果を求められることではないか。それで壁を感じているならばすばらしい。壁が出てきたということはそこに全力で向かっていく気持ちが存在し、さらに労力を費やしてきた証しだと思う」
 ブログなどを活用するアスリートが増える中、改めて情報発信の重要性を感じている。
 「エンターテインメントの世界に対し見る側は対象が遠くにいると近づいてほしい、でも近づきすぎることは望まない。親しみを求めながらも憧憬の念も抱いていたい。その心理は複雑だ。距離感はとても大事だ」

 
 いつか、「イチロー監督」をみてみたい、とのファンの声は多い。
 「現時点でそれ(監督)を問われたら『ありえない』と答える。ただ、王貞治氏に『現役のときに監督をやることを想像していましたか』と伺ったことがある。『全く想像できなかった。自分が監督になるとは思っていなかった』とおっしゃった。それを聞いた時に自分の気持ちも将来、どう動くか分からないとは思った。ただ自分がその器でないことくらいは現時点でも分かる」
 世界に出て再認識したこと。そのひとつが日本語を大切にすることだ。
 「米国に行ってから、日本語の深さや美しさを自分なりに感じるようになり、日本語をきれいに話したいと思い始めた。日本語でも自分の感覚や思いを伝えることは困難だと感じている。それが外国語となれば、不可能に等しい。英語で苦労する以前に、僕は日本語で苦労している」
 野球以外でも、経済や日本企業の動向などにも高い関心を持っている。
 「日本の製品は安心感が抜群。外国メーカーの技術も、実は日本人が開発していることが多いのでは、と想像している。技術が外に出ていく状況をつくってしまった国や企業に対して、それはいかがなものか、とは思う。いま、安倍(晋三首相)さんのこと、めちゃくちゃ応援しているんです。頑張ってほしいです」
 「初めて株を買ったのが、中学生の時。それで、中学のころから株価分析の本を読んでいた。任天堂の簡単な株のゲームなんかも好きだった。今もホテルでリクエストしているのは、日経新聞。応援したい企業の現物株を買って、ちょっとだけ配当をもらうというスタンスだ」

2013年2月7日木曜日




 毎月、近くの養護老人ホームを訪問してるが、ホーム内でインフルエンザーの患者が発生したので、何時もはお部屋でお会いしてる95歳の、おばあさんとロビーで面会した。
施設の介助員が車椅子の、おばあさんを携えて来た。私はロビーでマスクを渡された。
ロビーには雛人形が艶やかに飾られてた。

 おばあさんと面会するように成ったきっかけは1年程前の伊達市の傾聴ボランテイア講座を受講し、実習の時に始めて、おばあさんとお話した。おばあさんの部屋にニューモラルの小雑誌が有って、今は小雑誌が届いて無いとのことだったので、今度、私が届けますとお話し、今に繋がっている。

 おばあさんは耳が少し遠いが、頭はしっかりとしており、記憶力も確かで、横文字単語もいろいろ出てきて、ユーモア一杯の冗談が多く、何時も会話は笑が絶えない。孫が16人、曾孫が2人で、毎月、茨城から娘さんが訪ねて来て、いろいろと写真を拝見したが、家族、親戚が中の良い、幸せ一杯の感じだ。

 おばあさんに会うと、元気を頂く。私の父は既に他界してるが、父とは3歳違いで、おばあさんと会うと、何時も父を思い出す。何時までも、元気で、お話ができたら良いと思ってる。

 

2013年2月1日金曜日


福島原発事故後、近くの小学校は校外活動は1日2時間に制限されてる。

今日は低学年の生徒達と猪苗代の箕輪スキー場へ「冬の移動教室(雪遊び)」で日頃の鬱憤払しで、大いに楽しんでいた。ソリ滑り、雪合戦、穴掘り、雪だるま作り、皆、笑顔一杯。お変わりが自由なお昼の美味しいカレーライス。

 私がお手伝いさせて頂いてる特殊学級の生徒さんのお母様と朝、出発前に少しお話した。「息子は今日は行きたくない、昨日から緊張しており、心配してますが、宜しくお願い致します。」と話されてましたので、少し心配しましたが、とり越し苦労でした。
 
 初めはソリ滑りを怖がって、一緒に滑ると、自信が付いたのか?「今度は自力で一人で滑る」と言って、滑りました。皆と滑りの競争を何回もしました。とても楽しそうで、何回もスタート地点まで登り、滑りました。
 
 彼は他の学校の低学年のスキー教室を見て
「自分もスキーをやりたい、でも、出来るかな?」
「どんなことでも、練習すると、何でも出来るよ」
と、話したら、今日の自信から「今度、やってみるよ」
と話してました。

 子供の力は無限大で、大人が、しっかりと見守り、丁寧に導くと、子供は素晴らしく発展すると感じた1日でした。伊達市は除染作業を強力に進めてますが、以前の普通の自然を取り戻すのは何時に成るのか?