2011年12月31日土曜日

「サンザシの樹の下で」 中国の巨匠、チャン・イーモウ監督が放つ実話に基づく感動のラブストーリー。文化大革命下の中国を舞台に、引き裂かれる少女と青年の悲恋が映し出される。コン・リーやチャン・ツィイーといった大女優を見出してきた監督が、中国国内を探し回って発掘した新鋭チョウ・ドンユイをヒロインに抜擢。彼女が純真な少女を初々しく演じている。

 先日、久しぶりに福島フォーラムで中国映画「サンザシの樹の下で」を観た。チャン・イーモウ監督の映像は何時も自然体の中からの強烈なメッセージで感動させられる。私が十余年生活した南京でも文化大革命(1966年~1976年)の爪痕がそこここに覆い隠せず散在してた。日本では私が丁度、大学入学した頃から始まり、全学連、学生運動で学校封鎖、社会混乱を経て、入社、高度成長期へと突き進んだ時代だ。文化大革命の約20年後に私は南京に赴任したことに成るが、中国人部下の会社幹部はこの革命を体験した。革命を体験してない若い社員との思想には大きな隔たりがあった。会社での仕事、毎日の生活の中で、この文化大革命の影を見ながら、感じながら、中国人と共に過ごした。
中国映画を観ると何時も郷愁で胸が込み上げてくる。

 現在の上海、北京等の大都市で急成長してる会社のオナーの多くは、この文化大革命時に、米国等の海外に逃れていた者、その子供達が帰国して起業してる。
映画「覇王別姫」も文化大革命の様子を良く描写してるが、その時代が暗ければ暗い程、映像化された物、者は返って、皮肉にも余りにも美しく描き出される。

 その時代を体験してる、体験して無いでは、現状のこの時代の見方の差が出て当然であるが、体験の有無に関わらず、共にこの時代を生きてる。この時代を如何に共通認識で共有できるか?
私の住む福島県伊達市は正に、歴史上の大惨事に遭遇してる。地震、津浪の天災に加えて、おそらく人災(水素爆発は防げた?)の原発事故、風評で先が見えない。
毎日、容赦なく時は刻み、明日は新年を迎える今日は大晦日だ。大惨事も時と共に風化していく。福島の放射能からの脱却は子供、孫へと引き継がれて行く長い道のりで、又、多くの人々の叡智が必要とされ、決して風化させるものではない。如何に後世へ引き続くシステムの構築と定着が必須である。
”人間は2度死ぬ”始めは生命が終わり、次にその人の話題が消滅する時。
常に、被災地、被災者、原発、放射能、等の今回の惨事を話題にし、何が出来るか、自問し、実行して行く後ろ姿を明確にしよう。




100歳、なお且つ、青年。
毎日の時間を無駄にしてないか?どのように使う?
彼は「 自分以外の何かのために使う」大切さ、
それが、生かされてる、責務。

「使命」 とは命を使うことだと、先日の伊達市警察所長のお話の実体験「3.11翌日に部下120人と原町へ飛び、放射能の真っただ中で、背水の陣で遺体250体を手厚く葬ったと。
消防隊、自衛隊も「使命」命を使っていたと話した。

 

「命とは君たちが持っている時間である」
       
       
            日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)
        
     
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僕はいま人生において最も大切だと思うことを、
次の世代の人に伝えていく活動を続けているんです。

僕の話を聞いた若い人たちが何かを感じ取ってくれて、
僕たちの頭を乗り越えて前進してくれたらいいなと。

その一つとして僕は二年前から二週間に一回は
小学校に出向いて、十歳の子どもを相手に
四十五分間の授業をやっています。

最初に校歌を歌ってもらいます。
前奏が始まると子どもたちの間に入って、
僕がタクトを振るの。

すると子どもたちは外から来た年配の先生が
僕らの歌を指揮してくれたというので、
心が一体になるんですね。


僕が一貫してテーマとしているのは命の尊さです。
難しい問題だからなかなか分からないけれどもね。

でも「自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん」
と言ったら、全員が挙げるんです。

「では命はどこにあるの」って質問すると、
心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。

僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、
このように話を続けるんです。


「心臓は確かに大切な臓器だけれども、
 これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。
 命とは感じるもので、目には見えないんだ。

 君たちね。
 目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。

 空気見えるの? 酸素は? 風が見えるの? 

 でもその空気があるから僕たちは生きている。
 このように本当に大切なものは
 目には見えないんだよ」と。


それから僕が言うのは


「命はなぜ目に見えないか。
 それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
 死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。

 どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うか
 しっかり考えながら生きていってほしい。

 さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために
 使うことを学んでほしい」


ということです。

僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。
そこには


「寿命という大きな空間の中に、
 自分の瞬間瞬間をどう入れるかが
 私たちの仕事ですね」


と書かれていた。
十歳の子どもというのは、もう大人なんですよ。
あらゆることをピーンと感じる感性を持っているんです。

僕自身のことを振り返っても、
十歳の時におばあちゃんの死に接して、
人間の死というものが分かりました。
子どもたちに命の大切さを語り続けたいと思うのもそのためです。

2011年12月14日水曜日

1

3歳で右目を、9歳で左目を失明。
   18歳で聴力も失い、全盲ろうになった福島智氏。

 彼の言葉に何時も衝撃を受ける。

「医師も看護師も、その他様々な職業に就いている人たちも、
問われているのは世界中の人々に対してどうこうではなく、
具体的な他者に対して何ができるかということです。」

   


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        「人生における“問い”」
      
       
            福島智(東京大学先端科学技術研究センター教授)
        
           
      

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私が思うに「修業」というのは、
何らかの苦悩を伴いながら自分を
高みに連れていこうとする営みのこと。

ビジネスでも、学問でも、お寺の勤行なんかでも
そうかもしれない。

しんどいことはしんどいけれど、
そのしんどいことを通して別の喜び、
別の景色が見えてくるということだと思います。


私自身は障害を持ったほうがよかった、
などと単純には言いません。

ただ、たまたま障害を持つという運命を
与えられたことによって、自分自身の人生について、
また障害を持つとは何なのか、
完全でない人間が存在するとはどういう意味なのか、
といったことを考えるきっかけを得ました。

誰かに質問されなくても、絶えずそのことは
心のどこかで考えていることになりますので。

そういう人生における「問い」が
私の心の中に刻まれたという点で、
自分にとってはプラスだったなと受け止めているんです。


完全な答えが出ることはないでしょうが、
重要なことは、問いがあって、
その問いについて考え続けることだと思います。

その部分的な答えとしては、おそらく人間の価値は
「具体的に何をするか」で決まるということ。
何をするかとは、何を話し、何を行うか、すなわち言動ですね。


私が盲ろう者になって指点字の通訳が始まりつつある時に、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだんです。


その作品の中で、ある貴婦人が


「私は人類愛がとても強いのですが、
来世を信じることができません」


と悩みを打ち明ける。

それに対して長老は


「実行的な愛を積むことです。
 自分の身近な人たちを、飽くことなく、
 行動によって愛するよう努めてごらんなさい。
 
 ただし実行的な愛は空想の愛に比べて、
 怖くなるほど峻烈なものですよ」
 
 
と諭すんですが、私もそのとおりだなと思いました。

人間は博愛主義者にはすぐになれるんです。
「全人類のために」という言葉は誰にでも言うことができる。
だけどすぐそばにいる人の困っていることに対しては、
案外冷淡になるんですよね。

だからこそイエスは「汝の隣人を愛せ」と
言われたのではないかと思うんです。


      (略)


医師も看護師も、その他様々な職業に就いている人たちも、
問われているのは世界中の人々に対してどうこうではなく、
具体的な他者に対して何ができるかということです。

2011年12月6日火曜日

 以前、NHKで爆笑問題の爆問学問で取り上げられた、東京大学教授の福島智の興味深い文章を見つけたので、下記紹介します。
 どの様な、環境、現象に対して、ありのままに受入、それを肥やしとして、明日への糧とする、力はどの様に、何処から生じてるのか?
 今、生かされてる喜びを感じ、感謝できる姿勢に努力せねばと、改めて想わされました。
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   3歳で右目を、9歳で左目を失明。
   18歳で聴力も失い、全盲ろうになった福島智氏。

   過酷な運命を自らの生きる力へと変え、
   盲ろう者として初の東大教授になるなど、
   障害学の分野に新たな地平を拓いてきた氏の
   お話をご紹介します。


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        「苦悩は人生の肥やしとなる」
       
       
            福島智(東京大学先端科学技術研究センター教授)

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【記者:ご自身では障害や苦悩の意味を
    どのように捉えていますか】


障害を持ったことで、私は障害者のことを
少しは考えるようになりました。

やはり何がしかの関係を持ったこと、
広い意味での当事者になったことが
その大きなきっかけになりました。

また、自分にとっての苦悩は他者との
コミュニケーションが断絶されることでしたが、
これも実際に体験してみて初めて分かったことでした。


苦悩を体験することの凄さは、
苦悩の一つのパターンが理屈抜きに分かること。
もう一つは、苦悩する人たちが抱えているものを
想像しやすくなるということですね。

挫折や失敗をすることはしんどいし、
できるだけ避けたいけれど、
おそらくほとんどの人が人生のどこかでそれを経験する。

いくら避けようとしても必ず何がしかのものはやってくる。
だから来た時にね、



“これはこれで肥やしになる”


と思えばいいんですよ。

私が子供の時代には、まだ日本にも
たくさんあった肥溜めは、
臭いし皆が避けちゃうけれど、
それが肥やしとなって作物を育てた。

一見無駄なものや嫌われているものが、
実は凄く大切なことに繋がるということでしょう。
これは自然界の一つの法則だと思います。



       * *


同じようなことをアウシュビッツの収容所を生き抜いた
フランクルが述べています。

彼はいつ死ぬかも分からないという極限状況の中でも、
苦悩には意味があると感じていたようですが、
それは彼一人だけの思いではなかった。

あの過酷な状況下で、自分以外の他者のために
心を砕く人がいたように、ぎりぎりの局面で
人間の本質の美しさが現れてくる時がある。


もちろんその逆に、本質的な残酷さや醜さを
見せることもありますが、
人間はその両方を持っているわけですよね。

おそらく彼は苦悩をどう受け止めるかというところに、
人の真価、人間としての本当の価値が
試されていると考えたんじゃないかと思うんです。


苦悩というフィルターをかけることで、
その人の本質が見えてくると。


フランクルの主張で最も共感を覚えるのは、
その人が何かを発明したり、
能力が優れているから価値があるということよりも、
その人が生きる上でどんな対応をするか。

苦悩や死やその他諸々の困難に
毅然と立ち向かうことが最高度の価値を持つ、
といった趣旨のことを述べている点です。

したがって、障害を持ったことや病気をしたこと自体に
意味があるのではなく、それをどう捉えるかということ。

身体的な機能不全を経験することも、
それ自体に大きな意味があるんじゃなく、
それを通してその人が自分自身や他者、
あるいは社会、あるいは生きるということを
どのように見るかが問われているのだと思います。