2012年11月15日木曜日



先日、NHKで見た。衝撃的な響きだ。彼を紹介した記事を下記ご参照。

全聾の作曲家 佐村河内守

被爆者を両親として広島に生まれる。4歳から母親よりピアノの英才教育を受け、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし「もう教えることはない」と母親から告げられ、以降、作曲家を志望。中高生時代は音楽求道に邁進し、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳のと き、原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。
高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学ぶ。
1988年、ロック歌手として誘いを受けたが、弟の不慮の事故死を理由に辞退。聴力の低下を隠しながらの困難な生活が続く中、映画『秋桜』、ゲー ム『バイオハザード』等の音楽を手掛ける。1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びるが、この作品に 着手する直前に完全に聴力を失い全聾となっていた。抑鬱神経症、不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まな い頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
2000年、それまでに書き上げた12番までの交響曲を全て破棄し、全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。同年から障害児のための施設 にてボランティアでピアノを教える。この施設の女児の一人は、交響曲第1番の作曲にあたり佐村河内に霊感を与え、この作品の被献呈者となった。 2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を完成。



先日放映されたNHK番組「ただイマ!」で、
“奇跡の作曲家”と紹介され、大きな反響を呼んだ
佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏。

14年前、両耳の聴覚を失うというアクシデントに見舞われるも、
絶対音感を頼りに、交響曲を書き上げるなど、耳鳴りや発作と
闘いながら作曲活動に励んでおられます。

【記者:耳の不自由な状態で、どのようにして作曲をされるのですか】


音が聞こえなくても、「絶対音感」があれば作曲はできるのです。


【記者:絶対音感?】


普通は、例えばピアノを弾いて音を確かめながら、
譜面に書き込んで曲をつくっていきます。

しかし絶対音感が備わっていれば、ドがどんな音だとか、
それに♯(シャープ)がついたらどう変わるとか、
ピアノで確かめなくても分かるのです。

これは、子どもの頃に訓練することによって養われるもので、
大人になってからでは養えないといいます。



【記者:頭の中で曲をイメージして、それを譜面に書き込めるのですね】


はい。音の組み合わせ、楽器の組み合わせ、和声和音も
すべて頭の中で自由自在にできます。

ちょっとこのホルンの音を半音上げて
不協和音としたらどうなるだろうと思ったら、
そこの音だけ変えて百人のオーケストラを頭の中で鳴らしてみる。

実際に音を聞かなくても細部にわたって分かるのです。

先ほどの『交響曲第一番』は、17歳の時に作曲を始めたのですが、
破棄を繰り返して22年かけて完成させたものです。

普通は改訂を繰り返してつくり上げていくのですが、
私はすべて捨ててまた一からつくるのです。

違う、原爆の音楽はこんなものじゃないんだと。

ですからいまの『交響曲第一番』の譜面は、
まったく聞こえなくなった3年で一から
すべて書き上げたものでもあるんです。


【記者:あぁ、聞こえなくなってから】


私は自宅の音楽室で作曲をするのですが、
部屋の中には机が一つ置いてあるだけで、楽器は一切ありません。
人が見れば何もしていないように見えるでしょうね。

頭の中だけの作業ですから。
頭の中に降りてくる曲を書き留める作業ですから。


ただ、私には曲が降りてくるのを妨げるものがあるのです。


【記者:それは何ですか】


耳鳴りです。強烈なノイズです。
皆さんからはまったく分からないでしょうけれども、
私は自分の周りを分厚い雑音の壁で
360度囲まれているような感じでいるのです。

夜中に番組の放送されていないテレビのチャンネルをつけると、
砂の嵐のような画像とともにザーッという
不快な雑音が流れてくるでしょう。

あの音をものすごく大きくして四六時中
ヘッドフォンで聞かされているような感じなんです。


【記者:そんな状態で生活を……】


夜も眠れません。ですから私は精神安定剤を飲んでいるんです。
気が狂わないために薬で無理やりボーッとさせているようなものです。
ボーッとしながらもチャンスを見て作曲しなければならないのです。


【記者:作曲をやめようと思うことはないのですか】


それはないです。我慢できない時は死のうと思いました。
作曲もできないのであれば、生きている価値はないので
死んだほうがいいだろうと。

作曲というのは、天から降りてくる音楽を
キャッチするようなものです。

ですからなんとかノイズを忘れて集中しようとするのですが、
ここまで降りてきているものがノイズのために聞き取りにくい。
作曲中は常にそれとの闘いですね。

【記者:耳が聞こえなくなったことは、
    ご自分の音楽にどのような影響をもたらしましたか】


闇の中の光、これを発見することができました。

私は光を閉ざした暗い部屋の中で、
激しい発作に繰り返し見舞われました。
しばしばトイレにもたどり着けず、
糞と尿にまみれるのでオムツをして……。

自分はもうなんだか、人間じゃないように思われてきました……。
本当に深い闇に包まれている感じで……。

そんな折に、ご縁をいただいて、
複数の障害のある子たちの施設を訪れる機会があったのです。
そこの子たちは、私が何者かをまったく知りません。

でも、また会いたいって純粋な気持ちで求めてくれるんです。

次はいつ来てくれるのか、何月何日何時何分かまで約束させられて、
感動して、それから通い詰めるようになったんです。

それでも、発作がひどい時はどうしても行けなくなる。
そうしたら、そこはキリスト教系の施設なんですが、
子どもたちは自分のことは構わず、
守さんが元気になりますようにと
朝も昼も晩も祈ってくれているというんです。


施設の方からそれを聞かされた時、
私は闇の底に光を感じたんです。


【記者:あぁ、闇の中に光を】


その時に思ったんです。

闇が暗ければ暗いほど、小さな光の尊さを
感じることができるんだと。

その小さな光というのは、日常の何でもないようなささいな喜びとか、
当たり前と思っているようなことです。


明るい光の中で満たされた毎日を送っていたら、
その小さな光に気づけず、ありがたさも分からない。

地獄の底の暗闇の中をさまよっていたからこそ、
私は初めてその小さな光の尊さに気づくことができたんです。


【記者:暗闇の底にいたからこそ】


ですから私の音楽も、ずっと苦しみが続いて、
ふっとそこに美しいメロディが現れる。
そんなつくり方になっているんです。

先日広島に行って改めて思いました。
原爆が落ちて六十数年というと、
ほんのちょっと前のことだったんだと。
そんなに昔ではない過去に、大勢の人が一瞬にして消えたんです。

ところが、そんな悲惨な体験をした町に
いま住んでいる若者たちは、すべてではないけれども、
平和が当たり前、戦争がないことが当たり前という空気に
浸ってしまっている。

これは本当に怖いことだと私は思います。

私はそういう人たちに言いたいんです。「闇を背負いなさい」と。


【記者:闇を背負う?】


時には原爆資料館に行ってみたり、被爆者の体験を聞いたり、
いろんな本を読んで、世界の飢餓や、戦争のこと、
障害に苦しむ人のことを知ってほしい、理解してほしい。

もちろん苦しいですよ、闇は。
自分から地の底に下りていくのは辛いです。

私みたいな病気とか障害は、当然ないほうがいい。
でも、それを知ることによって、
平和や健康がいかにありがたいことかを理解することが
大事だと思います。

闇を知らなければ、小さな光は見えないし、
その尊さは分からないのです。

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