2011年8月11日木曜日

中村文昭氏講演会


中村文昭さんの講演会を友人と相乗りで車を走らせ、郡山ユラックス熱海で拝聴長した。会場には若者が半数近くの綺麗な浴衣を着た女性達も含め約300人弱の大盛況だった。

2時間半の休憩時間無しのパホーマンスで飽きさせない、感動的な講演会だった。彼は年間1000回の講演会を開く人気ものだ。開演前に喫煙室でタバコを吹かしていると、彼が入って来たので、名刺交換し、少し話した。私が伊達市から来たと話したら、知ってるよと言い、講演の中でも話していた。

 学生、企業幹部、学校の先生、少年院、等、いろいろな場所で講演しているので、会場雰囲気を素早く掴み、笑の多い伊勢弁で捲し立てた。常に相手の喜びを得る感動の行動を、どのような困難でもポジテイブにとらえ、前に進む。

 彼の著書によると、現在の事業は間もなく止めて、北海道で活動してる、引きこもり、ニートの若者達の農園「耕せにっぽん活動」に集中するそうだ。我が伊達市は放射能汚染で、農家は栽培が困難で、畑が安全に成るまで、彼の農園で子供達に伊達市から一人の農夫が指導に参加しているそうだ。

2011年8月10日水曜日

前回に続く後編です。
ドラッカーは読書、体験から教訓を学び、学問的に体系化し、実践した学者だが、先日の郡山の講演会を聞きに行ったが、クロフネの中村文昭はエネルギッシュで感動したが、彼は信奉する師匠から全てを学びとり、実践して成功した。両者、比較するのも変だが、対照的な感じがする。共通点は人の心を動かすのは理屈では無く、感動のエネルギーと考えさせられる。講演会模様は後のブログに譲る。
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「ドラッカー7つの教訓(後編)」
            
            上田惇生(ものつくり大学教授)
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四つ目の節目は新聞社勤務時代でした。

当時、ドラッカーが大きな影響を受けたのは編集長でした。
この編集長は毎週末、部下一人ひとりと差しで
一週間の仕事ぶりについて、また一月と六月には
半年間の仕事ぶりについて話し合いました。

優れた仕事から始まり、一所懸命やったこと、
反対に一所懸命やらなかったことなどを次々に取り上げ、
最後に失敗やお粗末な仕事ぶりは徹底して批判しました。

この中で記者たちは、今後の仕事で

「集中すべきことは何か」
「改善すべきことは何か」
「勉強すべきことは何か」

を探るのです。


彼がこの差しの討議の意義に気づいたのは、
随分時間が経ってからでした。

アメリカに移り、大学教授やコンサルタントの仕事を
始めてからだといいます。

以来、夏になると二週間ほど時間をつくり、
コンサルティング、執筆、授業について一年を反省し、
次の一年の優先順位を決めるのが習慣になりました。


          * *


五つ目の経験は「新しい仕事が要求するものを考える」
大切さを知ったことです。

ロンドン時代に証券会社から投資会社に移った時、
上司からこう言われます。


「君は思っていたよりもはるかに駄目だ。あきれるほどだ」と。


やがて彼は叱責の理由が、新しい仕事に移ってからも、
証券アナリストとしての仕事ぶりから
抜けきれないことにあったと気づきます。

これをきっかけに、新しい仕事に取り組む際は、


「この仕事で成果を上げるには何をしなくてはならないか」


と自問するようになるのです。



          * *


六つ目はアメリカでヨーロッパ史を学んでいた時、
近世のヨーロッパで力をつけていた
カトリック系のイエズス会とプロテスタント系のカルヴァン派の二つが、
奇しくも同じ方法で成長を遂げたことを知ったことでした。

両派の修道士や牧師は何か大きな仕事をする時には、
期待する成果を書き留め、一定の期間が過ぎた後、
結果と期待を見比べることで自分は何ができるか、
何が強みかを知っていたのです。


ドラッカー自身、この方法を実践し自らの強みを知り、
それをいかに強化するかに努力しています。


          * *
          

ドラッカーが七つ目に挙げた経験は、
小学校の頃、宗教の先生から聞かされた言葉でした。


「何をもって憶えられたいか」です。


同じことは彼が四十代の頃、父親と、その教え子であって、
かつ友人である経済学者シュンペーターとの会話でも耳にしたといいます。
ドラッカーの父はシュンペーターに質問しました。


「自分が何によって知られたいか、いまでも考えることはあるかね」と。


というのは、シュンペーターは若い頃
「ヨーロッパ一の美人を愛人にし、ヨーロッパ一の馬術家として、
そしておそらくは世界一の経済学者として知られたい」
と言っていたからです

その質問に対するシュンペーターの答えは

「昔とは考えが変わった。
 いまは優秀な学生を一流の経済学者に育てた教師として知られたい。
 理論で名を残すだけでは満足できなくなった。

 人を変えることができなかったら、
 何も変えたことにはならないから」


というものでした。

ドラッカーはこの会話から



「人は何によって知られたいかを自問自答しなくてはならない」


「その答えは年を取るごとに変わっていかなければならない」


「本当に知られるに値することは、人を素晴らしい人に変えることである」



の三つを学んだのです。

彼のこの七つの経験のうち三つまでが
読書によって培われたものでした。

彼は若い頃からハンブルク市立図書館の本を
全部読んだのではないかと言われるほど大変な読書家でした。

二十九歳の時の処女作『経済人の終わり』に、
プラトン、ソクラテスなどのギリシャ哲学から
ヒトラー、ムッソリーニまで二百人以上の思想と言葉が
紹介されていることをみても、それが理解できます。

数々の著書が生まれる背景に、
膨大な読書に培われた知識があることは
疑う余地がありません。(談)

Mr.Googleもうひとつの顔。

NPO法人りょうぜん里山学校http://sadosadosokai.jugem.jp/
 佐渡・疎開キャンプは放射能に汚染された福島県から子供達を空気がきれいで、素晴らしい自然の環境へ招待している。

資金不足がHPで案内されていたので、我が、家庭菜園の野菜を郵送させて頂いた。無農薬、米糠、竹パウダー肥料主体の安全、安心の自然野菜の長葱、胡瓜、茄子、ししとう、オクラ、ピーマンを箱一杯に詰めた。楽しい夏休みの思い出を作って欲しい。


友人が撮影した、我が100坪の家庭菜園


2011年8月8日月曜日


先日、我が町の「少年教室 夏の裏磐梯を探検しよう」の引率ボランテイアに参加した。
町内2校の小学生、40名弱を大人4人がお世話した。父兄は同行せずに、子供の自立の勉強イベントだ。

 子供達は校舎が今回の大震災で倒壊したので、それぞれ4校の大きな被害が無かった、別の学校へ友達と別れ分散して通学してる。放射能汚染の影響で、長袖を着て、外で遊べず、プールにも入れず、水筒を下げて、通学しており、かなりストレスが溜まっている様子だ。

 中央公民館に朝、集合して、父兄が手を振り見送る姿を
後にして、観光バスは発車して、一路、裏磐梯五色沼に向かった。ペットボトルの水が配られた。好きな友達同士で席に座り、期待に胸を含ませる、笑い声が車内に広まっていた。

 私の受け持ちは3,4年生の女の子8人グループだ。子供達がころんで、擦りむいた時ようの薬一式のビニール袋が引率者に配られた。五
色沼入口から約1時間の五色沼巡り散策が始まった。子供達に「五色沼は湖の色がそれぞれに色が変化し、綺麗だよ」と話した。「本当だ青色だ、緑色だと」キャーキャー騒いだ。「先生、走っても良い?」「道がデコボコで危ないから気おつけてね」「大丈夫だよ」と言いながら数名が先に走った。20年程前に、絵の仲間と沼の前でのスケッチ旅行、バーベキューを楽しんだことを思い出した。

 咳が酷い3年生の子は走らずに、一緒にゆっくりと歩いた。「大丈夫、熱は無い?」おでこを触るが、熱は無い。「お母さんが胸に咳止めのテープを貼ってくれたよ」と言いながら、胸を見せてくれた。「お尻にも貼るともっと良いよ」「ヤーダー、嘘だ」と言いながら質問を沢山、浴びせてきた。「この草は何て言うの?」「この虫は?」「空気がカブトムシの甘い臭いがするね」「ここは放射能は大丈夫かな?」・・・。先に走った子供達が待っていてくれ、追いつくと、又、走っ
て行った。8人が必ず居るか、子供達同士で、その都度確認しながら、「チャント居るよ先生」と、嬉しそうに叫んでいた。

 裏磐梯高原駅に先回りして、待っていたバスに乗り込む。直ぐ近くの裏磐梯ラビスパに着いて、楽しみなバイキング昼食だ。子供達は何回も好きな食べ物を取りに行った。私が蕎麦、オクラを食べていたら、
「このスパゲテイ辛い」「先生、お蕎麦と交換して」「私、オクラ大好き、先生、何処に有ったの?」「どうして好きなの?」「お爺さんが畑から採って来て、美味しいから」我が町は田園に囲まれた美しい町が放射能に汚染されてる。

 さー。プールだ。この施設は子供から大人まで楽しめる、深さがいろいろ、流れるプール、螺旋トンネル落下ウオターシュート、温泉、サウナ、等が備わっていた。先ほどの咳の酷い子は何回もウオターシュートの高い階段を上って、落下滑って、時間一杯、楽しんでいた。不思議なことに、いつの間にか咳が出ていない。「先生、バスの席は私の隣に座って!」と、私の手を引っ張った。

 プールで遊び過ぎて、予定より1時間程、遅れてバスは保原に向かった。途中、裏磐梯道の駅で休憩し、ソフトクリーム売店に並んだ。蕎麦ソフトには驚いた。咳の酷い子は私の手を放さず、一緒にソフトを食べた。中央公民館では、首を長くして、父兄が待っていた。先ほどの子は、おばあさんと一緒に私の車まで来て「さようなら」「今日はありがとう」「又、会おうね」と言って別れた。

 中国10余年生活した時に、家族帯同赴任者の子供達の父兄からの強い要望で、南京の日系企業の協力で「南京日本語補習授業校」の設立に奔走し、いろいろと苦労したが、毎週、土曜日に市内の各マンション、ホテルで待つ子供達をバスに乗せ、郊外の補習授業校へ引率した。勉強をしたり、皆と遊んだりと、楽しかったことが、走馬灯のように、思い出された。

 伊達市の霊山児童館に毎月、子供将棋の指導(遊び?)で楽しんでいるが、市内の小中学校のプール除染、校庭のグランド土削りが徐々に始まったが、子供達が安心して、屋外で飛び回れるように成るのは何時のことか?全て、私達、大人の責任だ。安全な環境の再現まで、出来ることから参画努力したい。





「ドラッカー7つの教訓(前編)」
             
            上田惇生(ものつくり大学教授)
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世界のビジネス界に大きな影響を与えているドラッカーですが、
その思想形成に当たっては人生の中で
七回の精神的な節目が訪れた
ことを著書の中で述べています。

その七つの経験から得た教訓を最初に列記すると、
以下のようになります。



 一、目標とビジョンをもって行動する。


 二、常にベストを尽くす。「神々が見ている」と考える。


 三、一時に一つのことに集中する。


 四、定期的に検証と反省を行い、計画を立てる。


 五、新しい仕事が要求するものを考える。 


 六、仕事で挙げるべき成果を書き留めておき、
  実際の結果をフィードバックする。


 七、「何をもって憶えられたいか」を考える。



最初の教訓「目標とビジョンをもって行動する」を得たのは、
ドラッカーが商社の見習いをしていた頃でした。
当時、彼は週一回オペラを聞きに行くのを楽しみにしていました。

ある夜、信じられない力強さで人生の喜びを
歌い上げるオペラを耳にし、
その作者が八十歳を越えた後の
ヴェルディによるものであることを知ります。

なぜ八十歳にして並はずれた難しいオペラを書く
仕事に取り組んだのか、との質問にヴェルディは


「いつも満足できないできた。
だから、もう一度挑戦する必要があった」



と答えたのです。

十八歳ですでに音楽家として
名を馳せていたヴェルディが、
八十歳にして発したこの言葉は、
一商社の見習いだったドラッカーの心に火をつけます。

何歳になっても、いつまでも諦めずに
挑戦し続けるこの言葉から、
「目標とビジョンをもって行動する」ということを学び、
習慣化したのがドラッカーの最初の体験でした。



        * *


その頃彼は、ギリシャの彫刻家・フェイディアスに関する
一冊の本を読みます。これが二つ目の経験です。

フェイディアスはアテネのパンテオンの屋根に立つ
彫刻群を完成させたことで知られています。
彫刻の完成後、フェイディアスの請求書を見た会計官が


「彫刻の背中は見えない。
 その分まで請求するとは何事か」


と言ったところ、彼の答えはこうでした。


「そんなことはない。神々は見ている」と。



この話を読んだドラッカーは

「神々しか見ていなくても、
 完全を求めていかなくてはならない」

と肝に銘じます。


        * *


三つ目の気づきはフランクフルトの新聞社に
勤めていた時に訪れます。

新聞は夕刊紙だったので、彼は朝六時から午後二時までの
勤務を終えた後、残りの時間と夜の時間を使って
徹底的に勉強しました。


その時、身につけたのが


「一時に一つのことに集中して勉強する」


という勉強法でした。
テーマは統計学、中世史、日本画、経済学など多岐にわたりますが、
一時に一つという勉強法を長年、貫いています。

そのことでいろいろな知識を仕入れるだけでなく、
新しい体系やアプローチ、手法を学んだといいます。(談)

2011年8月7日日曜日

福島フォーラムで原発映画をシリーズ放映してる。これまで、「100,000年後の安全」、「黒い雨」を観て先のブログに記載したが、今回は「ナージャの村」、「アレクセイと泉」を観た。

写真家の鋭い、優しい感覚で描写されていた。水道、電気、ガスの生活インフラが無い、自給自足の自然溢れる村で、避難を断り、生まれ育った大地に止まった老人達の生活をのどかに、それでいて、目に見えない恐怖にさらされながら、もくもくと生活していた。

村は高い放射能に侵されていたが、不思議なことに、泉からは放射能が検出されなかった。100年前の泉が今、涌き出ており、それを命の糧として生活してる。毎日の水汲みが命を繋ぐ、年老いて、水汲みが出来なくなるときは、命が尽きる時だ。
坂本龍一の重たくるしく、それでいて逞しく力強い音楽が静かに流れていた。


 映画鑑賞後は監督の写真家の本橋成一のトークが有ったが、現地病院での子供達が次々と天国へ旅立つ姿をみて、大人達は何てことをしでかしたのだと自責の念に囚われた。人間はもう少し、ゆっくりと、生活を楽しむ、彼らのような、人間の原点を見つめ直したいと話してた。

ナージャの村

概要・解説

ベラルーシ共和国ゴメリ州ドゥヂチ村。 チェルノブイリ原発事故で汚染された小さな村。 皮肉にも、放射能に汚染された村は、原子力の恩恵を受けない生活を続ける村だ。

政府からの立ち退き要請で、村は地図から消えてしまった。 村の3ケ所の入口はゲートで遮断され、 外部の人間は許可証がないと入れない。

それでも故郷を離れず、汚染された村に残る6家族がいる。 ユートピアのように美しい村。四季が移ろう。 麦やじゃがいもを育て、きのこを採り、詩を口ずさむ。 美しく厳しい自然とともに、大地に根ざして明るくたくましく生きる彼らの暮らしは、 豊かさとは何かということを私たちに教えてくれる。

本橋成一が、写真家ならではの美しい映像で綴る、いのちの大地の物語。

アレクセイと泉

概要・解説

ベルリン映画祭を始め、世界各国で好評を博した『ナージャの村』から5年。 写真家・本橋成一と音楽家・坂本龍一と組んで〈泉〉を主題としたドキュメンタリーを完成させた。

舞台となる〈泉〉は、1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発(旧ソ連・現ウクライナ共和国)の爆発事故で被災した、 ベラルーシ共和国東南部にある小さな村ブジシチェにある。 この村の学校跡からも、畑からも、森からも、採集されるキノコからも放射能が検出されるが、 不思議なことに、この〈泉〉からは検出されない。 「なぜって?それは百年前の水だからさ」と、村人たちは自慢そうに答える。

この百年、人間は何の豊かさを求めてきたのだろう。 《水の惑星=地球》の強い意志のようにこんこんと湧く〈泉〉は、私たちに"本当の豊かさとは何か"を静謐に語りかける。



  先日、SNS 「Facebook ビジネス活用術」セミナーを受講したが、ネットビジネスは氾濫しており、どのようにして、ネットを活用してビジネスを成功させているかを、下記の記事がヒントを与えてる。
 「客の声を真剣に聞いて、既成概念、習慣を打破するアイデア実践に地道な努力を行う。努力永続のキーは三者総繁栄【三方善】の理念。」

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有機・無添加食品の通信販売を行い、
 有機野菜などの食品宅配専門スーパー
 「Oisix」
http://www.oisix.com/shop.otameshi--otameshi_snk1980__html.htm
(おいしっくす)の運営などを手がける
 オイシックス社長・高島宏平氏の随想

      「正しいことを貫くために」
      高島宏平(オイシックス社長)
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 特別農業に関心があったわけでも、
 食に興味があったわけでもない。


 そんな私が仲間たちと有機野菜など
 安全な食材のネット通信販売会社を起業してから、
 十年が経とうとしています。

 将来起業することだけを決めて、
 経営を学ぶためにコンサルティング会社の
 マッキンゼー日本法人に入社。

 
     

 様々なビジネスモデルを模索する中で、
 インターネットを利用すること、
 その会社が存在してからのほうが社会が
 よくなったと言われるような会社をつくること。
 
 この二つの融合性を探り続け、
 行き着いたのが「食」の分野でした。

 私自身も経験がありますが、
 忙しい時にコンビニやファミレスで食事を済ませても、
 まったく幸せ感を得られません。
 
 逆に「なんかこの味、飽きたな」とか
 「食べたら体に悪いものも入っているんじゃないかな」とか、 不満や不安を抱いてしまう。

 こんなに物が溢れ、簡単に手に入る世の中なのに、
 それっておかしいんじゃないの? 
 おいしくて安くて、食べて安心な食材を
 手軽に手に入れたいというニーズは必ずある。
  食品業界は問題が山積しているからこそ
 チャレンジしたい。
 
 その思いから、

 「つくった人が自分の子供に安心して
  食べさせることのできる食品を提供する」
  
 という理念を掲げ、二〇〇〇年に 「オイシックス」を起業しました。
 
 私たちの前にも安全な食材の宅配サービスを行う
 企業はありました。
 
 しかしそのほとんどは
 「会員制」「定期購入」「セット購入」が条件という、
 言ってみれば生産者サイドからの基準が一般的でした。
 
 しかし結果的にお客様の使い勝手が悪く需要が伸びない。
 需要がないと大量生産できないから安くならない。
 安くならないと需要が伸びない、という悪循環を生み出していました。


 そこで私たちは会費無料、
 いつでも、誰でも、ほしい食材を一点からネット注文でき、
 宅配日時も指定できるシステムで
 食品業界にチャレンジしようと思ったのです。

 とはいっても、世界中でこういうビジネスを
 手掛けている前例がなく、すべてが手探りのスタートでした。
 
 契約農家を開拓するにも、当時はご法度とは知らず、
 築地市場で「有機」と印字されてある箱を探して、
 
直接産地に電話をして訪ねていく。
 
 当然、何者かも分からない私たちを
 相手にしてくれる農家さんが少ない中、
 足繁く通って契約し、そうして取り扱えた野菜は二十点程度。
 
 一日の注文数が二件で、そのうち一件は身内だった、
 というような状況が初年度は続きました。

 しかし不思議なことに「失敗するかもしれない」
 という思いが頭をよぎることは一度もありませんでした。
 「こんな商品もほしい」「ネットでこんなことができたらいい」。
 
 お客様から様々な声が届けられます。
 お客様が望んでいるサービスを提供していけば、
 必ずビジネスになるという信念が私にはありました。


 そしてその信念は利用経験者数四十万人、
 二千六百点の食品を取り扱い、
 年間約六十億円を売り上げるようになったいまも変わりません。
 
 いま、お客様に好評をいただいている
 「もったいないコーナー」も、
 顧客ヒアリングを続けていくうちに
 商品化に踏み切ったものです。


 通常、スーパーでは「正規品」として
 一定の規格に合った野菜のみを販売しています。
 
 台風で落ちたりんごや、曲がったきゅうりなど、
 見た目の悪い規格外の野菜は味に何の問題がなくても
 処分されてしまったりするのです。

 お客様が食に求めているのは見た目ではなく、
 圧倒的に安全性と味だと感じた私たちは、
 これらの規格外野菜を、「ふぞろいな野菜たち」と題して
 起業一年目から販売してきました。

 
 契約農家にとってはいままで廃棄してきたものが
 商品化でき、お客様は規格外野菜を低価格で購入できる。
 
 そして私たちはそれらを販売することで
 収益を得ることができます。
 三者総繁栄のビジネスモデルです。

 しかし、本当はこの規格外野菜について、
 私たちが手掛けるずっと前から多くの人が
 「もったいない」と感じていたと思います。
 
 しかし、業界のしがらみや前例に従って
 見て見ぬふりをしてきた。
 
 そこに私たちが着手したにすぎないと思っています。

 
 ビジネスは、アッと驚くようなアイデアよりも、
 誰もが当たり前に感じることを当たり前に行っていくこと。
 そしてその努力を地道に続けていくほうが
 大切ではないかと思います。


 では、地道に続けるためにはどうしたらいいのか? 
 様々なコツがあると思いますが、
 一番のベースとなるのは、その努力が
 自分たちの会社に利益をもたらすということです。

 社会にとって正しいことをやりたいといっても、
 その活動を続けていても利益が出ない。
 あるいはやればやるほど収益が減っていくとなると、
 途中でやめざるを得なくなります。


 企業体である我々は、企業活動を通して
 会社も社会もプラスになることを追求していくことが、
 正しいこと、世の中に役に立つことを
 貫いていける道ではないかと感じています。

 だからこそ、私はこの会社を大きくしたいと思うのです。
 食品流通業界のマーケットの中で、
 自然食品はまだ「ニッチ産業」でしかありません。
 
 多くの人が疑念を抱きながら食べている食品が
 マーケットの大多数を占めていること自体、
 おかしいのではないか。
 
 おいしくて安くて安心な食材を手軽に手に入れるという
 このマーケットを広げていく牽引役を目指して、
 私たちオイシックスは走り続けたいと思っています。