2012年10月26日金曜日



 近くの東日本生涯学習センターで岡田幹彦さんの歴史偉人伝、ケネデイー大統領が尊敬した
上杉鷹山公の講演を拝聴した。
今回、2度目の同じ内容の講演だったが、講師の迫力有る涙しての熱弁に再度、感激涙した。
一昨年前に、米沢で記念館、お墓、儒学者・細井平洲を迎えた場所、対面した家屋も見学したが、
改めて感動が甦った。

現在の日本の世相(経済低迷、借金まみれ)、リーダー不在に重ね合わせると、日本再興のヒントがここに有ると確信した。
リーダーとは如何に国民、部下を我が子を無償の愛で見守る父母の姿勢がもっとも重要で、
国、会社、商店の発展は単なる物質的な繁栄では永続せず、民の資質(道徳)向上が伴わないと、永続しない。リーダー自ら範を示すことで、民は信頼し、民の自らの力で再建を実現する。
改革にはリーダーの強い意志、彼の言葉である『なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』の信念である。
下記は山形県のHPから抜粋した。

不景気の世に見る米沢藩主・上杉鷹山公の経済改革



岡田幹彦

昭和21年、北海道に生まれる。國學院大学中退。学生時よりわが国の歴史・人物について研究を続け、月刊「明日への選択」に数多くの人物伝を連載するとともに、全国各地で「歴史講座」「歴史講演会」を行っている。『歴史街道』『歴史通』などにも寄稿。平成21 ~ 22 年、産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載(103回)。現在、日本政策研究センター主任研究員。

1961年1月20日、ケネディー大統領が、第35代アメリカ大統領に就任時の記者会見場。
「大統領が、いま日本人で一番尊敬する人は、誰か」と日本人記者から質問された時だ。
即座に「それは上杉鷹山である」と応えたことに端を発する。

内村鑑三の「代表的日本人」。

西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮上人の5人の日本人を海外に紹介した本だ。元は英文でかかれたものである。この本をケネディー大統領は読んでいた。


上杉鷹山とは?
宝暦元年(1751)7月20日に、高鍋藩主・秋月佐種美(たねみつ)の2男として江戸屋敷で生まれた。
幼名は松三郎、または直松。16歳に元服して治憲(はるのり)と改名。
家督を息子に譲り、隠居後52歳に鷹山(ようざん)と名乗る。

旧暦の1769年8月23日に幸姫(よしひめ)と結婚し、10月27日に19歳の時に米沢へ入部する。
江戸の正室・幸姫に婿養子として嫁ぎ第9代の米沢藩主となったが、幸姫に至っては生まれつき
心身の発育が遅い障害者で30歳で病死。普通の生活を送れず2人の中には子は生まれなかった。鷹山はこの妻を回りの人が驚く程に優しく愛した。

米沢藩の方の側室にはお豊の方がいて、生まれた子・治広(はるひろ)には35歳で家督を譲り
第10代米沢藩主に継がせる。

鷹山公は米沢藩で反対勢力に押されながらも大倹約令を実行し、米沢の財政を立て直し
発展の基礎を築いた人物である。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い
藩の手本として生涯続けた。故に鷹山『公』と付けられ呼ばれるのが一般的である。


米沢藩の借金地獄と財政圧迫の原因


  • 1.慶長6年(1601)の関ヶ原合戦後に、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減石されしまった。

  • 2.上記記載により石高を大規模に減らされたが、上杉家の異常に多い家臣数が変わらなかった。寛政5年(1793)の分限帳によれば家臣数が5398人とある。会津藩時代の頃とほとんど変わらぬ人数だ。それで領土が、会津120万石から米沢30万石に減らされ今で言うと大赤字の出る会社なのに対し、社員をリストラにしなかったのだ。

  • 3.第3代・上杉綱勝が後継者を定めず急死し、吉良上野介の子が上杉の家督を継ぐ際に
     手続きの申請に不手際があり、米沢30万石から15万石に減石されてしまった。

  • 4.上杉鷹山が家督を継ぐ前の、歴代の藩主や財政担当者が、財政状況に対し無関心だった。

  • 5.上杉家は古い格式を重んじ、着る・食べる・乗る・習慣的な行事に費用は惜しまず金を使った。上杉鷹山の時代になると借金は雪達だるま式に増え、米沢藩の借金は約16~20万両(約120億円)ほどの借金に膨れ上がっていたと商人による記録がある。さらに高金利でお金を借りていたので、果たして120億円で済んでいたかどうかすら不明だ。当時の米沢藩にとって100~120億の資金は、米沢藩の総支出の約6年分にあたるものでいかに規模が大きすぎる借金だったかは容易に見てとれるものだ。江戸の商人からは信用を失い、金を借りるのが次第に困難になっていった。米沢藩では借金が返せず、古い木や桜などで借金を返すなどといった方法でしかお金を返せないほど貧しかった。当時は博奕死刑令(ギャンブル)などもあったほどだ。鷹山公が継いだ当時は、実際に自己破産書を書いて幕府に提出するかどうか迷っていた。



上杉鷹山公に見る財政回復の建て直し


経済とは政により民を救うことで有る

  • 1.人員の整理

  • 2.田畑の整備と、漆・桑・楮の百万本の栽培計画

  • 3.殖産興業に力を注いだ

  • 4.米織物の工場を開いた

  • 5.実用の学力と人材育成

  • 優秀な人材育成も必要だと儒学者・細井平洲(へいしゅう)を江戸から米沢に招き
    学問を指導して貰った。米沢藩にも儒学者はいたが、鷹山公は役に立たない学問を身に付けても
    意味が無いと考え、役に立つ学問が必要だと細井平洲先生に熱意による説得で頼んだようだ。

  • 6.上書箱の設置                                                 上書箱と呼ばれる意見を入れる箱を設置し、誰でも自由に意見を書くことを許した。毎月2回箱を開け、殿様自ら内容を眺め広く民意を把握し、良い意見は取り入れたのだ。さらに今までは公開しなかったが、藩の財政支出を領民に公開し共に財政の建て直しを考えたという訳だ。

  • 7.神仏に誓い願った


”伝国の辞”


 現在でも米沢市の市拝命時に伝承されてる

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならないものです。

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民で
はありません

『受次(うけつぎ)て国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは 民の父母』



0 件のコメント:

コメントを投稿