2013年2月21日木曜日

収容所内に美術学校を設立した、小圃千浦。




 福島は大震災、原発事故で多くの被災者が各地の仮設住宅に避難しており、内、希望を見失い、既に21名の方が自死されている。

 太平洋戦争時のアメリカ在住の日系人12万人が各地の仮設収容所へ強制連行された。その過酷な収容所で決して諦めない、明日の世代に希望を繋ぐ子供達の教育を意識し、自己を見据え、日本人としての誇り、人間の尊厳を守り抜いた、知恵、芸術作品が子供達の健全育成施設の福島のこむこむ館で展示開催された。

 今日、作品を一点、一点、鑑賞した。何も無い、収容所でどの様な材料、どの様な方法、どの様な想いで作品作りをしたか、丁寧に鑑賞した。作品は真剣な想い、誠実な姿勢、明日を観る力強さが感じられた。

 日々の暮らしでともすると、怠惰な生活に流れんとする我が身への叱咤激励を強く感じた。今の不満、言い訳は取るに足らぬ小さなことだと改めて気付かされた衝撃的な展示会でした。


異境の日本画家 小圃千浦

1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発。アメリカ西海岸の日系人は敵国人と見なされ、12万人が各地に作られた仮設収容所に連行された。56歳の小圃も家族と共に住まいをおわれた。競馬場を改造したタンフォラン仮収容所。泥と藁まみれの粗末な馬小屋に何人もが押し込められた。自由、財産、最低限の誇りさえ失い、人々は絶望に打ちひしがれる。

そんな時、無邪気に兵士と戯れる子供の様子を見た小圃は、ひとつの決心をする。幼い子供たちはこれから将来の知識を学ばなくてはいけない。

彼が思い立ったのは収容所に美術学校を作ることであった。この計画を実現する為に当局と粘り強く交渉を重ねた。しかし、多くの日本人ですら、「非常時に美術がなんの役に立つ」とその計画に反発した。それでも彼は信念を変えず「どんな環境にあっても教育は食べ物と同じように大切である。芸術を学ぶことは、建設的で芸術教育は平和につながる」と考える。

彼は自由を失い、絶望に打ちひしがれた人々に生きる希望を与えようと挑んだ。日本人の心を癒すため、収容所内で美術学校を設立し、日本人の人権と生活向上のために尽力する。


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