2011年11月19日土曜日


我が100坪の無農薬、有機肥料の家庭菜園で巨大な聖護院カブ(大根)が収獲された。
今、カブ、大根、キャベツ、白菜、ほうれん草、長葱、二十日大根(ミニ)が大豊作で、愛妻の料理が上手い。

 食べきれないので、隣近所、友人にお裾分けして、喜んで頂いてる。放射能の風評で、東京に住む子供達に今年は野菜を送れないのが残念だ。

 肥料は主として、自動精米機の無料の米糠、友人から購入してる竹パウダー、ミミズが、はいずり回り、土を耕してる。私の耕法のポリシーは如何に手を抜いて栽培するかである。天気予報を見て、雨が降りそうな前日に種を撒く。南瓜、西瓜は土地面積狭いので、空中栽培を行ってる。米を購入してる農家から、もみ殻、藁を頂いて、散布してる。

 自然農法の達人の福岡正信「わら1本の革命」は農法の本だが、内容は人生哲学で、私の好きな老子の「無以自然」を実践していて、非常に感銘した。

 殆ど毎日のように、家庭で出る生ごみを畑脇のコンポースに運び、野菜の発育具合、雑草の状態、等、ドリップコヒーを飲みながら、一人、悦に入ってる至福の時を過ごしてる。両隣のプロの畑のお爺さんから、手ほどきを受け、世間話しでのんびりし、鍬で掘り起こし、汗をかいた時は、車で15分程で行ける温泉で疲れを癒す。畑への愛、何事も愛が、喜びへの基本?いろいろな興味があり、愛が発散して、なかなか成就しない。笑。

 朝は愛犬と40分程の散歩だが、最近は霜が下り、起きるのが少し辛いが、朝日を眺めながらは爽快だ。これから、来春に向けて、発酵した生ごみを埋め、土壌作りだ。


2011年11月16日水曜日

 今日、全5回の傾聴ボランテイア講座が終了し、終了証書を頂いた。心理士講師のお話、グループに分かれての傾聴ゲーム経験、近くの特別要介護老人ホームでの傾聴実践、等、内容は良く洗練されていて、参加して良かった。

 傾聴とは、相手の立場をよく理解して、真剣に聴く態度を観て相手の心を開かせることを学んだ。真剣に聴く態度とは、アイコンタクトが一番重要だと感じた。アイコンタクトだけでも充分に心を通わせる経験を、十余年の中国滞在生活で、言葉の通じない異国で経験した。

 未だ盲目の人と真剣に話した経験が無いが、やはり、相手は自分を観ることが出来ないが、こちらが相手を真剣に観ていることは通じるのだと思う。その時は思わず、相手の手に触れ、言葉の響きに相手を思う感情が表現され、相手と意思疎通ができるのでは、と思う。
アンマ・ジャパン

 マザーテレサの言葉で「愛の反対は無視」と言ってる。インドで今、最も尊敬され、先日も来日した、世界中の人々からアンマ(お母さん)と慕われる、マーター・アムリターナーンダマイー・デーブイは、会場の数万の参加者を、ただ優しい思いで、抱きしめる行為で、抱かれた人は感激の涙が溢れていた。
 今回の傾聴ボランテイアでは、多くの出会いが有った。30年振りの再会、末期癌患者へのケアーに取組んでる方、94歳のおばあさんから元気を貰った。おばあさんと話す内、私の保原の友人、静岡の友人と縁が有る方と知り、驚いた。最近、毎日、多くの出会いが有り、新鮮で、感謝してる。

 縁を頂き、更に絆に発展させ、更に、絆を強固にするには、相手を常に思い、その思いを態度に表す努力が大切と感じ、今日、南京の中国人旧友にメールした。又、3年前に縁を貰った友人と明後日、会う約束をした。その時、南京で知り合った日本人と同席し、両者の発展の為、紹介する予定だ。

2011年11月15日火曜日

 以前のブログでも記載したが、3・11の後、真剣に今の自分の存在を強く意識するように成った。

 昨日のブログで中津川渓谷での涙が溢れたことを書いたが。
今晩、宅急便が届いた。従兄からの荷物で、何かな、送って来る意味が
解らないまま、開封したら、手紙とカメラ、フイルム、東京オリンピック記念メダルが出てきた。彼は2年前に癌で大手術をして、今、闘病生活を送ってる。彼は写真撮影業界では、それなりに有名な方だが、私の仲間との毎年の「絵と戯れる会」発表会に時々、賛助出品で、国内外の各地で撮った写真を持参してくれた。昨年の発表会には来福し、一緒に福島市が一望できる温泉露天風呂で体を休めた。

 7年前に父は多くの絵画作品を残して他界したが、その作品もいずれは、風化し、原形を留めないだろう。中津川渓谷での親友、父の記憶、話題は今でも、仲間、家族に語り継がれて、皆を和ましている。
人間は2度死ぬと言われている。一度は肉体的、二度目は記憶、話題から消滅する時と言われてる。

 今、私は健康な体、精神で生かされている。この事実を真剣に見つめ、自分(体)を大切にし、生かされてる時間を日野原さんが言ってる、回りの人への時間に生かされたら、素晴らしいと思ってる。
十余年の中国での仕事、生活を終え、3年前に帰国したが、3・11に遭遇し、帰国させられたのは”神、天の計らい”と思うように成った。単身中国在任中に3.11が

有ったら、家族の事が心配で、仕事が手に着かない状態だったはずだ。
 帰国後、地域社会活動、ボランテイア活動に自ら発信して、活動させて頂いているが、多くの新たな出会いが有り、驚きと同時に感謝してる。先日は傾聴ボランテイアで近くの特別養護老人ホームへ行ったが、94歳のおばあさんから多くのヒントを頂いた。ホーム入所後、親戚からの毎月送付されるニューモラル小雑誌が手に入らないとお聞きしたので、来月からお届させて頂く。

 目の前の事象は刻々と変化、流されて行くが、その偶然の遭遇(人、自然、他)に感動し、何らかの意味を見出し、感謝することが出来れば、瞬間、々が輝くのではと、思う今日この頃だ。
 

日野原重明の名言集


人間にとって最も大切なのは、

命の長さだと思っている人は多い。


しかし、私が出会った人を振り返ってみて、

その人の命が素晴らしい命だと思える人においては、

ごく少数の例外はあるにせよ、

命の長さはあまり問題ではない。




人間の夢見る幸福というのは、

往々にして、貧乏するとか、仕事に失敗するとか、

あるいは病気にかかるということによって、

一瞬にして不幸に変わってしまうような、

儚いものである。


病のなかにも心の幸福を得るためには、

どうしたらよいかということを、

考えなくてはならない。




生きがいとは、

自分を徹底的に大事にすることから始まる。




私たちの身体は土でできており、

身体は早晩、土に還る。

私たちは、この土の器の中に、

はかりしれない宝を入れることが出来る。


私たちの寿命は、

土の身体に何を容れるかを模索することで費やされる。


器は器のためにあるのではなく、

中に何ものかを容れるためにあるからである。




鳥は飛び方を変えることは出来ない。

動物は這い方、走り方を変えることは出来ない。

しかし、人間は生き方を変えることが出来る。




何事も、今ある規則のとおりにやっていたのでは進歩はない。

規則を破るようなことをやらないと、現状はなかなか変わらない。

規則を破ったとしても、皆が応援するような破り方をすればよい。

そうすれば、新しい良い規則がずっと早く出来る。




これまでの教育は、出来あがったデータを記憶させる教育であった。

困難な問題にぶつかったときに、

問題解決が出来るような能力を与えられていない。


本当に学ぶべきなのは、

問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである。

学校を出てからも自分で出来るような頭の仕組みを作る。

そして、その仕組みに従って生活をし、行動することが必要なのである。




自分のためにでなく、人のために生きようとするとき、

その人は、もはや孤独ではない。




なんと言っても、人が人に与える最高のものは、

心である。


他者のための「思い」と「行動」に費やした時間、

人とともにどれだけの時間を分けあったかによって、

真の人間としての証がなされる。




自分の命がなくなるということは、

自分の命を他の人の命の中に残していくことである。


自分に与えられた命を、

より大きな命の中に溶け込ませるために生きていくことこそ、

私たちが生きる究極の目的であり、

永遠の命につながることだと思う。




二十世紀の日本人は、

自分の中にないものを先進諸国からとりいれようとして忙しく働きすぎた。

そして、古来の日本人の内にあったよきもの、

奉仕する心、人情、よき伝統を忘れてしまった。




私たちに与えられた恵みを数えてみれば、

どんな逆境にあったとしても、

受けているものの方が、

与えるものよりも多いことに気付く。

受けた恵みを、どこかで返そうと考えたいものである。




自分以外のことに自分の時間を提供するためには、

周りの人間から孤立して、

自分だけの世界に閉じこもっていてはいけない。


人々とともに生きる世界に自分を置き、

周囲がいま何を必要としているのか、

自分には何ができるのかを絶えず考えながら、

毎日の生活を送る必要がある。




多くの人々は自分の財産や名声や地位を得るために全力投球している。

それなのに、財産やお金よりも大切な、

自分の命のために全力投球している人は少ない。


なぜ、その大切な命のために、

時間と財産を提供しないのか、

そうして安全に確保された命を思いきり有効に使おうとしないのか。

自分の命を自分で格調高く保つための勉強を、

めいめいがもっとしなければならない。




老人のケアは苦労も多い。

しかし、いつの日にかあなたも、

あなたが老人にしたようなやり方で、

ケアされる日が必ず来るのである。

■ 日野原重明の名言集2


人間が人生において経験した喜びと、

悩みや悲しみを、その生涯の終りに秤にかけると、

どちらが重いだろうか。


多くの人の秤は、

悩みや悲しみのほうに傾くことが多いのではないか。




人間が本当に自由になる時代が、

人生の最後にくる。




残された日々、まだ行ったことのないところに

行ってみようという計画もあると思う。

しかし何より大切なのは、生きることについて、

これまで以上の「深さ」を求めることではないだろうか。




完全に健康でなければよく生きることはできない、

立派なことはできないと思いこんでしまうことは危険である。




老いた身の一番の不幸は孤独であり、

積極的に生きる方向と目標がともに定かでないことである。

この孤独は、老いた人間を悲しく沈没させてしまう。




未知の世界に自ら飛び込んで、

やったことのないことをやることによって、

使ったことのない脳が働き出す。




最期に自分の生涯を顧みて、

自らが生まれてこうなったことは意味があると考えられるように、

今日を生きることである。




外科手術や化学療法の発達した今日でもなお、

最も大切な治療法の一つは、

キリストの時代のごとく、

「言葉による癒し」なのである。




文化は命を愛するものである。

命を傷つけるものは、文化でも文明でもない。




心の良い習慣というのは表情やしぐさにあらわれる。

人の顔つきも習慣なのです。




人は主義や主張より前に、人間であることを必要とする。

人間の本質的なものとしての人間性を踏まえての、

主義、主張でなければならない。




よき眼と耳、暖かい手と配慮の心、

しみ込むような言葉を持ち、患者と家族に接したい。




どんな困難に直面しても、

「ここから始まるのだ」ととらえ直すことができれば、

私たちはかならず前進できます。




自分を相手に置き換える想像力を、

身につけたいものである。




人は最後の瞬間まで、

生きる希望に支えられるべきなのです。

日野原重明の名言集3


誰しも幸福を望みますが、

それを実感することにおいてはきわめて鈍感です。




生きていることの意味は自分で探し勝ちとるものです。

それがつまり生きがいにつながります。




人間の体には3万6000もの遺伝子がある。

その多くが使われないままなんです。


それはあまりにもったいない。


違った環境に身を置けば、うちに秘めた未開発の良き遺伝子が、

思わぬ花を咲かせるかもしれない。


人生とは未知の自分に挑戦することだよ。




人のために自分を捧げる喜びを知っている人を、

プロと言います。




人生には無駄というものはないもので、

しかし、後にならないと、

その意味がわからないということがたくさんあるのです。


つらいことでも苦しいことでも、

「体験」したことは、間違いなくその人の強みになります。




習慣に早くから配慮した者は、

おそらく人生の実りも大きい。




年齢は勝ち負けではありません。

謙虚に、そして存分に味わえばよいのです。




ビジョンは大きいほうがいい。

たとえ自分が実現できなくても、

バトンタッチすればいいのですから。




きりのない欲望が、

あなたをしあわせから遠ざけます。


 

 先日、茨城から妻の弟が紅葉を観に、来福、我が家へ訪れた。一緒に高湯の玉子湯の露天風呂に行った。露天風呂は数か所有り、見知らぬ叔母様二人は、タオルだけで前を隠し、露天を渡り歩いていて、驚いた。性を意識しなくなり、中性と成るのは何歳から?年齢に関係無い?この温泉は白濁色で、体が温まる。




 現在は復興イベントで、吾妻スカイライン、レークラインが無料なので、景色を楽しみながら、米沢経由で保原に戻った。途中、中津川渓谷の茶屋で初蕎麦を食べ、



渓谷入口の鮮やかな紅葉前でシャッターを押した。渓谷まで、急な階段を下って行ったが、昨年、「絵と戯れる会」のスケッチをここで、仲間と楽しんだが、大親友のその人は数ケ月後に、病死した。いろいろと思い出され、涙が溢れて来た。

 その晩、妻の弟と我が家で大いに杯を傾けながら、楽しんだ。彼は翌朝、早く西吾妻山登山で、出かけた。

2011年10月29日土曜日

伊達市市民ホール建設に向けて」
伊達市は5町合併し、5周年を迎えた記念事業で、5町一体の思いを込めたシンボルモニュメントの市民ホールの建設を検討し始めた。

 4年前に中国での10余年の生活、仕事を完遂して定年帰国し、何か伊達市、保原町に貢献出来ないかの思いから、自らアプローチして、いろいろな活動に参画させて頂いている。中国でも中国人を始め、多くの友人ができたが、帰国後も新たな多くの友人と交流してる。

 伊達市の公募に応募して採用され、建設検討委員会のメンバーとして、中国での経験を提案させて頂いている。メンバーの中で公募参加は私一人だが、他の20名程の方々は、各界の会長さん達のそうそうたる集まりで、それぞれ経験が豊富で、ご意見は的を得てますが、個性(自らの立場)が良く出てる意見です。

 今回の第3回集まりは、先進地施設視察で、皆様と郡山ユラックス熱海、南会津町文化ホールの視察でしたが、このような市民の希望するホール建設は単なる市民自らの利益のみを優先すると、失敗するのではないかと反省、実感させられた。

 市民が希望する施設を建設するのは、初期目的としては、その通りだが、多大なる税金の投資での建設は、市民のみならず、県、国、広く世界へ貢献できる施設建設が出来たら素晴らしいと思う。

 その為には何処にでも有るような施設では無く、伊達市だから出来る、他から観ても、なかなか特色のある、利用したい、と思わせる施設建設が必要だ。

 世界全体からの観点から見れば、自然破壊(CO2問題)、少子高齢化、常に何処かの国では戦争状態、平和、安全が懸念され、生き方の多様化、生きがいの損失、失業率の高騰、経済の不安定である。

 しかし、今回の3.11大震災で、世界から注目された日本、日本人の原点を思い起こし、それを自然豊かな伊達市から発信出来るような施設が必要だ。自然に優しく、高齢者、子供に優しい、自然災害に強い、明るく楽しい夢が描ける希望の施設が欲しい。

 以上の思い、コンセプトをどのように具現化させるかは、今後、自ら提案し、皆様のご意見を聞いて行きたいと思っております。

10月22日(土)ガンバッペ福島”絆”講演会
大成功に終了致しました。応援頂きました、皆様に御礼を申し上げます。

 毎年、この講演会は開催されてますが、今回、始めて保原高校の生徒さん達とのコラボでしたが、若さのパワーに大きな勇気を貰いました。参加者のある方は感動で涙が溢れて来たと、話されてました。

 ”絆、元気”の開催目的が達成できましたのは、生徒さん達の熱意溢れる吹奏楽、合唱、避難者を思うガレキ絵、書道作品でした。

 壇上の大きな「勇気」の作品は、その前での演奏をより引き立て、会場と一体となる”絆”が演出され、深く力強い絆が生まれました。

 生徒さん達80名を含め、250名の参加者が熱心に”人間の絆”テーマの講演を拝聴長し、演奏、他を、楽しみました。高子に有る、生涯学習センターから、飲料水の支援物資、81歳の方が避難者へ少しでも、お役に立ちたいとの思いで、1本、1本、丁寧に心を込めた手作りの”孫の手”100本も提供されました。会場の皆様に可愛らしいハンケチもプレゼントされました。

 以前もこの講演開催のお手伝いをしましたが、今回は保原高校校長、教頭、部活顧問の先生と何度か打合せを行いましたが、学校組織は私が経験した民間企業とは異なる、風土が有り、戸惑う場面も有りましたが、皆、生徒さん達の事を真剣に考えておられることを実感しました。我々30数名のスタッフもそれぞれの担当を喜びを持ちながら、動き回ってました。

 生徒さん達は気持ちの良い挨拶で、楽器の運搬、作品展示、会場の椅子並べ、後片付け等、はつらつと自然な行動で、我々
スタッフを感動させました。約2ケ月の開催準備で、当日雨天の場合、他いろいろと気配りをしながら進め、又、飯館村、浪江町からの避難者の仮設住宅へ講演会のご案内訪問等、スタッフは大いに苦労しましたが、大成功に開催出来たことへの感謝と安堵感を味わっている今日この頃です。

 伊達市は放射能汚染、風評等で、まだまだ落ち着けませんが、今回の感動、”絆”を大切に、前に向かって進みたいと思っております。皆様、本当にありがとうございました。


2011年10月20日木曜日

 

 昨晩、伊達市の「傾聴ボランテイア講座」の第一回を受講した。全5回の講座である。
”聴”とは耳+目+心

 受講者24名中、私がお誘いした人を含めて、男性は3人だった。
何故、このような場には男性が少ないかは、後のブログで考えたいと思う。

 中国単身生活10余年を終え、帰国後、家族の居る、福島で
3.11の大震災に見舞われた。
幸いに私は大きな震災を受けず、生かされてる。
これは偶然の成せる業か?天の計らいか?

 多くの方が亡くなり、被災地では生存者でも避難生活を強いられている。
前回の「ボランテイア基礎講座」の終了式後、帰宅すると大震災に遭遇した。
震災後、いろいろなボランテイア活動をさせて頂いているが、

 生かされてる時間を単に怠惰に過ぎ去ることは、亡く成った方、避難者、私の生を授けた両親にすまないと強く思い、出来ることから、時間を生かそうと考えてる。(日野原重明さんが100歳の
記念番組で、子供達に「生きてるとは何ですか?」「それは、昨日でもなく、明日でもない、今の時間を使える事だよ」と話されていた)

 今回の受講の動機はボランテイアする上での知識習得ではなく、
”人間”の字の意味する、人間存在の基本である、
人と人との間のコミュニュケーション
(広くコミュニテーの形成。放射能除染後、単独で村に戻っても人は生きていけない。
隣近所、商店、他の社会が一体と成って、始めて生活ができる)の基本の
”傾聴”とは何かを知りたいと思ったのが動機である。

 人とは何かを知る上でのヒントが有ると感じた。
家族、友人、回りの人と素晴らしいコミュニュケーションが出来れば、
人生豊かになると感じた。

 第一回の講座内容は二人ずつのペアーで、それぞれ、質問役、聴き役で実験を行った。
実験条件は3種で(①目を合せない、頷かない、返事をしない、②目を合せて頷くだけ、
③目を合せ、頷き、返事をする)行ったが、①では難聴者、無感情者に話しかけてる様で、
コミュニュケーションが成立せず、一方通行で、質問の気力が失せ、結果、無口の暗い、
沈んだムードと成った。

 私は中国赴任当時、全く中国語が話せなかったが、
不充分ながらもコミュニュケーションができた。それは相手の目の動きを注視し、
自分の思いを目で表現することで、「目は口ほどにものを言う」の通り、
お互いの意志が疎通した経験が有る。

 次回の講座が楽しみである。