2011年10月29日土曜日

伊達市市民ホール建設に向けて」
伊達市は5町合併し、5周年を迎えた記念事業で、5町一体の思いを込めたシンボルモニュメントの市民ホールの建設を検討し始めた。

 4年前に中国での10余年の生活、仕事を完遂して定年帰国し、何か伊達市、保原町に貢献出来ないかの思いから、自らアプローチして、いろいろな活動に参画させて頂いている。中国でも中国人を始め、多くの友人ができたが、帰国後も新たな多くの友人と交流してる。

 伊達市の公募に応募して採用され、建設検討委員会のメンバーとして、中国での経験を提案させて頂いている。メンバーの中で公募参加は私一人だが、他の20名程の方々は、各界の会長さん達のそうそうたる集まりで、それぞれ経験が豊富で、ご意見は的を得てますが、個性(自らの立場)が良く出てる意見です。

 今回の第3回集まりは、先進地施設視察で、皆様と郡山ユラックス熱海、南会津町文化ホールの視察でしたが、このような市民の希望するホール建設は単なる市民自らの利益のみを優先すると、失敗するのではないかと反省、実感させられた。

 市民が希望する施設を建設するのは、初期目的としては、その通りだが、多大なる税金の投資での建設は、市民のみならず、県、国、広く世界へ貢献できる施設建設が出来たら素晴らしいと思う。

 その為には何処にでも有るような施設では無く、伊達市だから出来る、他から観ても、なかなか特色のある、利用したい、と思わせる施設建設が必要だ。

 世界全体からの観点から見れば、自然破壊(CO2問題)、少子高齢化、常に何処かの国では戦争状態、平和、安全が懸念され、生き方の多様化、生きがいの損失、失業率の高騰、経済の不安定である。

 しかし、今回の3.11大震災で、世界から注目された日本、日本人の原点を思い起こし、それを自然豊かな伊達市から発信出来るような施設が必要だ。自然に優しく、高齢者、子供に優しい、自然災害に強い、明るく楽しい夢が描ける希望の施設が欲しい。

 以上の思い、コンセプトをどのように具現化させるかは、今後、自ら提案し、皆様のご意見を聞いて行きたいと思っております。

10月22日(土)ガンバッペ福島”絆”講演会
大成功に終了致しました。応援頂きました、皆様に御礼を申し上げます。

 毎年、この講演会は開催されてますが、今回、始めて保原高校の生徒さん達とのコラボでしたが、若さのパワーに大きな勇気を貰いました。参加者のある方は感動で涙が溢れて来たと、話されてました。

 ”絆、元気”の開催目的が達成できましたのは、生徒さん達の熱意溢れる吹奏楽、合唱、避難者を思うガレキ絵、書道作品でした。

 壇上の大きな「勇気」の作品は、その前での演奏をより引き立て、会場と一体となる”絆”が演出され、深く力強い絆が生まれました。

 生徒さん達80名を含め、250名の参加者が熱心に”人間の絆”テーマの講演を拝聴長し、演奏、他を、楽しみました。高子に有る、生涯学習センターから、飲料水の支援物資、81歳の方が避難者へ少しでも、お役に立ちたいとの思いで、1本、1本、丁寧に心を込めた手作りの”孫の手”100本も提供されました。会場の皆様に可愛らしいハンケチもプレゼントされました。

 以前もこの講演開催のお手伝いをしましたが、今回は保原高校校長、教頭、部活顧問の先生と何度か打合せを行いましたが、学校組織は私が経験した民間企業とは異なる、風土が有り、戸惑う場面も有りましたが、皆、生徒さん達の事を真剣に考えておられることを実感しました。我々30数名のスタッフもそれぞれの担当を喜びを持ちながら、動き回ってました。

 生徒さん達は気持ちの良い挨拶で、楽器の運搬、作品展示、会場の椅子並べ、後片付け等、はつらつと自然な行動で、我々
スタッフを感動させました。約2ケ月の開催準備で、当日雨天の場合、他いろいろと気配りをしながら進め、又、飯館村、浪江町からの避難者の仮設住宅へ講演会のご案内訪問等、スタッフは大いに苦労しましたが、大成功に開催出来たことへの感謝と安堵感を味わっている今日この頃です。

 伊達市は放射能汚染、風評等で、まだまだ落ち着けませんが、今回の感動、”絆”を大切に、前に向かって進みたいと思っております。皆様、本当にありがとうございました。


2011年10月20日木曜日

 

 昨晩、伊達市の「傾聴ボランテイア講座」の第一回を受講した。全5回の講座である。
”聴”とは耳+目+心

 受講者24名中、私がお誘いした人を含めて、男性は3人だった。
何故、このような場には男性が少ないかは、後のブログで考えたいと思う。

 中国単身生活10余年を終え、帰国後、家族の居る、福島で
3.11の大震災に見舞われた。
幸いに私は大きな震災を受けず、生かされてる。
これは偶然の成せる業か?天の計らいか?

 多くの方が亡くなり、被災地では生存者でも避難生活を強いられている。
前回の「ボランテイア基礎講座」の終了式後、帰宅すると大震災に遭遇した。
震災後、いろいろなボランテイア活動をさせて頂いているが、

 生かされてる時間を単に怠惰に過ぎ去ることは、亡く成った方、避難者、私の生を授けた両親にすまないと強く思い、出来ることから、時間を生かそうと考えてる。(日野原重明さんが100歳の
記念番組で、子供達に「生きてるとは何ですか?」「それは、昨日でもなく、明日でもない、今の時間を使える事だよ」と話されていた)

 今回の受講の動機はボランテイアする上での知識習得ではなく、
”人間”の字の意味する、人間存在の基本である、
人と人との間のコミュニュケーション
(広くコミュニテーの形成。放射能除染後、単独で村に戻っても人は生きていけない。
隣近所、商店、他の社会が一体と成って、始めて生活ができる)の基本の
”傾聴”とは何かを知りたいと思ったのが動機である。

 人とは何かを知る上でのヒントが有ると感じた。
家族、友人、回りの人と素晴らしいコミュニュケーションが出来れば、
人生豊かになると感じた。

 第一回の講座内容は二人ずつのペアーで、それぞれ、質問役、聴き役で実験を行った。
実験条件は3種で(①目を合せない、頷かない、返事をしない、②目を合せて頷くだけ、
③目を合せ、頷き、返事をする)行ったが、①では難聴者、無感情者に話しかけてる様で、
コミュニュケーションが成立せず、一方通行で、質問の気力が失せ、結果、無口の暗い、
沈んだムードと成った。

 私は中国赴任当時、全く中国語が話せなかったが、
不充分ながらもコミュニュケーションができた。それは相手の目の動きを注視し、
自分の思いを目で表現することで、「目は口ほどにものを言う」の通り、
お互いの意志が疎通した経験が有る。

 次回の講座が楽しみである。

2011年10月19日水曜日


 今週末のイベント企画で、大勢の人の、いろいろな、ご意見を
纏め、皆が愉快にイベント開催ができるよう、心配りで、
少し疲れ気味だったが、心和む文章を見つけました。
人生の生き方の原点はシンプルに意味があった。

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和紙に自作の詩と絵を描き、心の風景を綴る
言の葉 墨彩画家・ひろはまかずとし氏の 心に残るお話

       「あなたの一だけをひたすら書きなさい」
       
       
       
            ひろはまかずとし(言の葉墨彩画家)
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 実は私は、子どもの頃から字が下手でした。
 普段書く字はもちろん、書道も絵も、
 通知表の評価ではいつも1か2でした。
 
 そういう人間がいま、言の葉墨彩画家として
 たくさんのファンの方々に恵まれ、一定の評価を得ています。
 書家や画家の方から一度も非難を浴びたこともなく、
 むしろそういう人たちの中にも私のファンの方がいます。
 
 この事実は、とても大きな教訓を含んでいると思うのです。



 中学時代のある日のことでした。
 
 国語の先生がお休みで、代わりに教頭先生が
 授業を受け持ってくださったことがありました。
 
 教頭先生は「きょうは習字をやろう」とおっしゃり、
 字の嫌いな私が憂鬱な思いを抱いていると、
 教頭先生は半紙を一人二十枚ずつ配り、
 
 
「横棒の一だけを書きなさい。
一に決まりはないから、何も考えずに
あなたの一だけをひたすら書きなさい」


 とおっしゃったのです。
 
 教頭先生は黙々と書き続けている生徒の周りを回り、
 各々の字を褒めては頭を撫でてくださいました。
 私はその時間中に三十回くらい頭を撫でられました。
 
 文字で褒められたことのない人間が、
 一という文字を書いただけで褒められた。
 私にとっては、目から鱗が落ちるような嬉しい体験でした。
 
 教頭先生は授業の終わりにこうおっしゃいました。
 
 
「文字はすべて、この一の組み合わせなんだよ。
 だから、素晴らしい一を書ける人間に
 素晴らしい字が書けないわけがない。

 
 書けないのは、格好いい字を書こうとか、
 見本通りに書こうと思うからで、
 一本一本思いを込め、愛を込めて書くだけで、
 自分にしか書けない素晴らしい字が出来上がる。

 
 このことは、人間の生活すべてに
 当てはまることなんだよ」
 
 
 その教頭先生の言葉がいまの私の創作活動、
 そして人生を支え続けてくれているといっても過言ではありません。

2011年10月18日火曜日

【公式】映画「一命」予告-HD高画質-

 友人から上映を聞かされた。別の友人のブログで映画の感想が有り、余りにも重たい内容で、貧しさの描写が自分の過去を思い出されたとあった。

 全くの予備知識無しで、観たが、子供が病死、夫婦、父親が自決(切腹)の凄まじい映画だった。
自決の刀は、真剣が質草で売られ、木刀で切腹した。
武士とは何か、運命の悪戯で、富める者、貧しき者を問いただし、形骸化された武士のシンボルのチョンマゲを切り落とし、踏みにじり、武士道とは何かを問う。
武士の面子を保たなければ、武家社会組織が崩壊する。面子の前では一命を投げ出す。

 外国人には到底理解できない、腹切り、単純な殺戮に観えるだろう。日本人は残虐な国民だと誤解を与えかねない、心配で有る。画像の芸術性は相当に高い、坂本龍一の音楽も効果的だが、3.11被災者へ勇気、元気を与えるには難解な内容である。家族の為、武士の誇りを守る為には一命を捨てる。
なんとも重たい気持ちで、映画館を出た。
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127分‎‎ - 任侠/時代劇‎
監督: 三池崇史 - 出演者: 笹野高史, 役所広司, 中村梅雀, 竹中直人, 満島ひかり, 新井浩文, 市川海老蔵, 瑛太, 青木崇高, 波岡一喜 -
1962年に『切腹』というタイトルで仲代達矢主演、小林正樹監督により映画化された滝口康彦の小説『異聞浪人記』を、三池崇史監督が再映画化。市川海老蔵と瑛太が、“切腹“という行為を通して武家社会という権力に立ち向かった寛永時代の浪人を熱演。ふたりのまっすぐな生き様を通して、世の中の不条理を問う。時代劇初の3D作品ということも話題。

音楽は坂本龍一が担当。主演は時代劇映画初出演となる『出口のない海』の市川海老蔵。

第64回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映された[1]が、無冠に終わった[3])。

キャッチコピーは「いのちを懸けて、問う―― なぜ男は、切腹を願い出たのか――。世界を圧倒した衝撃の超大作。」。

2011年10月16日日曜日












保原秋祭り、太鼓競演
妻、愛犬2頭と近くの神社へ見に行った。子供達が可愛い!!
愛犬は太鼓の響きに、最初は驚いていたが、女の子と楽しく遊んでいた。

2011年10月11日火曜日

Tsunami Damaged Junior High, Addresses at a Graduation Ceremony (English...


ニュースウオッチ9 “涙が止まらなかった”広がる感動 15歳の答辞 「天を恨まず」
平成22年度の文部科学白書に、東日本大震災で被災したある中学3年生の卒業式での答辞が全文掲載されました。彼の言葉は全国の人々を勇気づけ、支援の輪が広がりつつあります。

本日は 未曾有の大震災の傷も 癒えないさなか 私たちのために 卒業式を挙行していただき ありがとうございます。
ちょうど 十日前の三月十二日。 春を思わせる暖かな日でした。

私たちは そのキラキラ光る日差しの中を 希望に胸を膨らませ、通いなれたこの学舎を 五十七名揃って 巣立つはずでした。

前日の十一日。 一足早く渡された、 思い出のたくさん詰まったアルバムを開き、 十数時間後の卒業式に   思いを馳せた友もいたことでしょう。

「東日本大震災」と名づけられる 天変地異が起こるとも知らずに・・・。 階上中学校といえば 「防災教育」といわれ、内外から高く評価され、 十分な訓練もしていた 私たちでした。  

しかし、自然の猛威の前には、 人間の力は あまりにも無力で、 私たちから大切なものを 容赦なく奪っていきました。
  天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。  

つらくて、悔しくてたまりません。 時計の針は 十四時四十六分を指したままです。

でも、時は確実に流れています。 生かされた者として 顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、 正しく、たくましく生きていかなければなりません。  

命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。 しかし、 苦境にあっても、 天を恨まず、 運命に耐え、 助け合って生きていくことが、 これからの 私たちの使命です。 私たちは今、 それぞれの   新しい人生の一歩を踏み出します。

どこにいても、 何をしていようとも、 この地で、 仲間と共有した時を忘れず、 宝物として生きていきます。 後輩の皆さん、 階上中学校で過ごす 「あたりまえ」に思える日々や友達が、 いかに貴重なものかを考え、 いとおしんで過ごしてください。 先生方、 親身のご指導、ありがとうございました。

先生方が、 いかに私たちを思ってくださっていたか、 今になってよく分かります。  地域の皆さん、これまで様々な ご支援をいただき、ありがとうございました。

これからも よろしくお願いいたします。 お父さん、お母さん、家族の皆さん、 これから私たちが歩んでいく姿を 見守っていてください。 必ず、よき社会人になります。

私は、 この階上中学校の生徒で いられたことを誇りに思います。 最後に、 本当に、本当に、ありがとうございました。

平成二十三年三月二十二日 第六十四回卒業生代表  梶原 裕太


2011年10月10日月曜日

ガンバッペ福島 ”絆” 講演会  開催のご案内

 今回の未曾有の大震災で東北地方は大きな被害を受け、特に福島県は地震、津浪、原発事故放射線、風評被害等で毎日、不安な日々を暮らしております。

今回の講演会を通して、地元皆様の力強い絆を結束して、明るく元気な美しい福島を取り戻したいと思います。

                       


日時:平成23年10月22日(土) 14:00~16:00 

(受付は13:30から) 

会場:伊達市保原市民センター    伊達市保原町字宮下111

主催:保原モラロジー事務所 代表世話人 阿部澄子

                  伊達市保原町6丁目10 電話024-575-3186

            *公益財団法人モラロジー研究所の認可された事務所          

後援:伊達市教育委員会   

講演:講師  公益財団法人モラロジー研究所   社会教育講師   横尾昭男

(有)ことぶきや漬物設立。(有)壽屋寿香蔵設立。

社団法人東根市観光物産協会会長

演奏:保原高等学校 吹奏楽部、合唱部

展示:美術部、書道部

参加費:無料


プログラム

14:00~14:05  開会挨拶

14:05~14:10  来賓挨拶     

14:10~15:00  講演 「人間の絆」 横尾昭男

15:00~15:15  休憩、”絆”ふれあいタイム、生徒作品の鑑賞

15:15~15:55  演奏、合唱 保原高校吹奏楽部、合唱部

15:55~16:00  花束贈呈、閉会挨拶


2011年10月8日土曜日

 学生時代に読んだ「夜と霧」を思い出した。
3.11震災後、毎日の生き方を見つめ直してるが、そのヒントがここにあった。


ナチスの強制収容所を生き抜いたことで知られる
精神科医、V・E・フランクル博士。

第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。発行部数は、(20世紀内の)英語版だけでも累計900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという[1]。また、読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査で、翻訳ドキュメント部門第3位となったとされる。

“生きていることにもうなんの期待がもてない”
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
ここで必要なのは、
生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。
“わたしたちが生きることから何を期待するか”
ではなく、むしろひたすら、
“生きることがわたしたちから何を期待しているのかが問題なのだ”
ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。



   その直弟子である永田勝太郎氏。
 死の淵にいた永田氏を救ったフランクル博士の言葉。


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        「人生はあなたに絶望していない」
       
       永田勝太郎(財団法人 国際全人医療研究所理事長)
  

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これは十三年前のことですが、ある時大病を患って、
突然歩けなくなってしまったんです。

何だろうと思っているうちに立つことも
できなくなって寝たきりになり、
ベッドのそばにあるトイレにすら
自分の力では行くことができなくなりました。

薬の副作用のため、末梢から筋肉が萎縮し、
力が抜けていくという病気でした。


そういう状況の中で、頭の中では何を考えていたかというと、
人間は死を受容できるのかということでした。

自分がまもなく確実に死ぬと思っていましたから、
毎日毎日天井を見ながらそのことばかりを考え続けました。

ただその時に、あの世はあるかということは思わなかった。
自分がもし万が一生きられたらって、いつも思っていましたね。

つまり、死んだらどうなるかということよりも、
生き延びることができたら、自分の人生を
何に使おうかと考えたわけです。

だから僕も楽観的だったと思うんですが、
散々悶々と考えた挙げ句に出た結論は、
俺は死を受容できないということでした。


受け入れられないから、もし死んだら化けて出るだろうと(笑)。
だったら生きるしかないだろうと思うようになったんですね。

ところが病状は日に日に悪化し、
ペン一本すら重たくて持てない。

眠るたびに酷い悪夢に襲われ、全身汗だくになって目が覚める。

僕が倒れたのはフランクル先生が亡くなった
翌年の一九九八年だったんですが、
僕はとうとう彼の奥さんにこんな手紙を書きました。


「エリーさん、さようなら。
 僕はいま死ぬような大病を患っているんだ。

 もう二度とウィーンの街を歩き回ることもないだろう。
 これから先生の元へ行きますよ」。


 そしたらエリーさん、慌てて返事をくれましてね。
 
 
 「あなたがそんな病気でいるなんて、とても信じられない。
 
  私は医者ではないから、
  あなたに何もしてあげることはできない。
 
  けれども生前、ヴィクトールが
  私にいつも言っていた言葉をあなたに贈ろう」。


この言葉が僕を蘇らせてくれたんですね。
 



 「人間誰しもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。



  しかしあなたが人生に絶望しても、



  人生はあなたに絶望していない。


  
  あなたを待っている誰かや何かがある限り、



  あなたは生き延びることができるし、自己実現できる」。




この手紙を僕は何百回も読み返しました。
そうして考えたのは、いまの自分にとっての生きる意味とは
何だろうということでした。

そして考え続けた結果、
「あなたを待っている誰かや何か」の焦点は
私にとっては医学教育であり、
生きる意味は探せばちゃんとあるのだと感じたんです。

それから私はよし、と気合いを入れ直してリハビリに専心し、
毎日鍼治療も受けました。

さらに漢方薬や温泉療法なども行って、
二年後には奇跡的に職場復帰まで果たすことができたんです。


(エリーさんの)あの言葉がなかったら
僕はいまここにいませんよ。

医療もまさに心一つの置きどころで、
患者の側が自ら治ろうという気概を持たなければ
何も起こらない。

僕はこれを傘に例えているんですが、
傘には布と芯の部分がある。
布の部分は医療者や家族であり、
芯の部分が患者さん本人ですよ。

これがなければ、傘の用をなさないですよね。
僕はこれをアンブレラ理論と呼んでいますが、
治療には絶対に必要なものと考えています。

2011年10月6日木曜日

人はその人を失った時、その人の偉大さに初めて気づかされる。
恥ずかしながら、彼のこのスピーチの存在を初めて知り、じっくり見たが、

「目前の失敗、苦境は目前の事象にとらわれず、恩寵的試練と受け止め、明日への糧とする。

この強い発露は、常に生と死を真剣に見つめ、明日の命は解らない、生かされている今を

自分の信念に従い、己を信じ、愛し、誠実に最大限の努力を持って生きて行く」

素晴らしいメッセージだ。

悩んだ時、目的を見失成った時、何度も見たいメッセージだ。