2011年10月8日土曜日

 学生時代に読んだ「夜と霧」を思い出した。
3.11震災後、毎日の生き方を見つめ直してるが、そのヒントがここにあった。


ナチスの強制収容所を生き抜いたことで知られる
精神科医、V・E・フランクル博士。

第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。発行部数は、(20世紀内の)英語版だけでも累計900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという[1]。また、読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査で、翻訳ドキュメント部門第3位となったとされる。

“生きていることにもうなんの期待がもてない”
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
ここで必要なのは、
生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。
“わたしたちが生きることから何を期待するか”
ではなく、むしろひたすら、
“生きることがわたしたちから何を期待しているのかが問題なのだ”
ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。



   その直弟子である永田勝太郎氏。
 死の淵にいた永田氏を救ったフランクル博士の言葉。


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        「人生はあなたに絶望していない」
       
       永田勝太郎(財団法人 国際全人医療研究所理事長)
  

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これは十三年前のことですが、ある時大病を患って、
突然歩けなくなってしまったんです。

何だろうと思っているうちに立つことも
できなくなって寝たきりになり、
ベッドのそばにあるトイレにすら
自分の力では行くことができなくなりました。

薬の副作用のため、末梢から筋肉が萎縮し、
力が抜けていくという病気でした。


そういう状況の中で、頭の中では何を考えていたかというと、
人間は死を受容できるのかということでした。

自分がまもなく確実に死ぬと思っていましたから、
毎日毎日天井を見ながらそのことばかりを考え続けました。

ただその時に、あの世はあるかということは思わなかった。
自分がもし万が一生きられたらって、いつも思っていましたね。

つまり、死んだらどうなるかということよりも、
生き延びることができたら、自分の人生を
何に使おうかと考えたわけです。

だから僕も楽観的だったと思うんですが、
散々悶々と考えた挙げ句に出た結論は、
俺は死を受容できないということでした。


受け入れられないから、もし死んだら化けて出るだろうと(笑)。
だったら生きるしかないだろうと思うようになったんですね。

ところが病状は日に日に悪化し、
ペン一本すら重たくて持てない。

眠るたびに酷い悪夢に襲われ、全身汗だくになって目が覚める。

僕が倒れたのはフランクル先生が亡くなった
翌年の一九九八年だったんですが、
僕はとうとう彼の奥さんにこんな手紙を書きました。


「エリーさん、さようなら。
 僕はいま死ぬような大病を患っているんだ。

 もう二度とウィーンの街を歩き回ることもないだろう。
 これから先生の元へ行きますよ」。


 そしたらエリーさん、慌てて返事をくれましてね。
 
 
 「あなたがそんな病気でいるなんて、とても信じられない。
 
  私は医者ではないから、
  あなたに何もしてあげることはできない。
 
  けれども生前、ヴィクトールが
  私にいつも言っていた言葉をあなたに贈ろう」。


この言葉が僕を蘇らせてくれたんですね。
 



 「人間誰しもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。



  しかしあなたが人生に絶望しても、



  人生はあなたに絶望していない。


  
  あなたを待っている誰かや何かがある限り、



  あなたは生き延びることができるし、自己実現できる」。




この手紙を僕は何百回も読み返しました。
そうして考えたのは、いまの自分にとっての生きる意味とは
何だろうということでした。

そして考え続けた結果、
「あなたを待っている誰かや何か」の焦点は
私にとっては医学教育であり、
生きる意味は探せばちゃんとあるのだと感じたんです。

それから私はよし、と気合いを入れ直してリハビリに専心し、
毎日鍼治療も受けました。

さらに漢方薬や温泉療法なども行って、
二年後には奇跡的に職場復帰まで果たすことができたんです。


(エリーさんの)あの言葉がなかったら
僕はいまここにいませんよ。

医療もまさに心一つの置きどころで、
患者の側が自ら治ろうという気概を持たなければ
何も起こらない。

僕はこれを傘に例えているんですが、
傘には布と芯の部分がある。
布の部分は医療者や家族であり、
芯の部分が患者さん本人ですよ。

これがなければ、傘の用をなさないですよね。
僕はこれをアンブレラ理論と呼んでいますが、
治療には絶対に必要なものと考えています。

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