2012年12月29日土曜日




何時もテレビで拝見し、行動力に感心してましたが、感動的な記事が有りましたので、ご紹介します。実体験から彼はこのように発言してます。

人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。


「お母さんから命のバトンタッチ」


              鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)


僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。


「先生、助からないのはもう分かっています。
  だけど、少しだけ長生きをさせてください」


彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、


「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を母親として見てあげたい」


と言うんです。

9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。

でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。


奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。

こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。

おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。



さらに不思議なことが起きました。

彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。

でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。

僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。


「母は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」


と娘さんは言いました。

彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。

病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、


「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」


と言って送り出しました。


ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。


「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
 そのおむすびを持って、学校に行きました。
 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」



お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。


でも、命は長さじゃないんですね。


お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。


人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。

2012年12月23日日曜日

対論 文明の原理を問う

今回の東日本大震災は何だったのだろう?

 過去に、世界で初めての広島、長崎の原爆投下。著者は文中に「この投下が我慢強い日本で無く、他国だったら?大暴動に発展?又、今回の大震災が東北で発生した結果、現地被災者の整然とした行動は何故か?」

 日本民族の文明原泉は何か?これらを世界に類の無い日本独特の文明の成りたちと、欧米の”神との対峙”に対する日本の”自然との共生”を東北地方の縄文文明、自然界の力強い営みを解明し、今回の大震災の復興へのビジョンを提言した。”目からうろこ”の感動的な内容だったので、ご紹介しました。

 2011年3月11日(金)
一週間の「ボラテイア基礎講座」の終了証書を受領し、帰宅した時に遭遇しました。その時の状況は当時のブログをご参照ください。

 5年前に、中国南京市への単身13年間の勤務、生活を完遂し、帰国、今回の被災。これをどのように考えるか?人はそれぞれの歴史、現状をどのようにとらえ、明日への行動の意志決定を成すかは人、それぞれと思うが、私は今回の大震災は、家族の待つ日本へ震災遭遇前に天の計らいで、帰国させられ、今回の震災を迎えたと、とらえた。私が中国に滞在してたら、家族のことが心配で仕事も手に付かず、又、家族は私と共に震災に遭遇し、どれほど心強かったか?

 又、何故か「ボラテイア基礎講座」の終了証書を受領したその日だったのか?天の計らいと、とらえ、直ぐに、伊達市の社会福祉協会へボランテイア登録し、浜通り地区からの被難者の対応、他、各種、被災対応ボランテイアを現在もさせて頂いている。

 過去、現状の流れを如何に認識し、冷静にとらえ、ポジテイブに将来の指針を見出し、行動するか?その連続性の結果、両親の待つ天へと導かれたなら、幸せと考える、年末の今日である。

目次

緊急提言 日本が東日本大震災から立ち上がるために 安田喜憲
序 新たな文明原理を求めて 安田喜憲
第1章 縄文文明の原理が語る確かな未来 vs大島直行(北海道伊達市噴火湾文化研究所所長)
第2章 人類を救う稲作漁労文明の原理 vs町田宗鳳(広島大学大学院教授)
第3章 森の命が人間を救う vs大橋力(文明科学研究所所長)
第4章 命あるものと交流する文明 vs中谷巖(三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長)
あとがきに代えて――東北の大地に生命文明の時代を
内容
地球と人類を滅亡から救うために、「生命文明の時代」に向かえ!
2011年3月11日、東北・関東を襲った東日本大震災は、近代ヨーロッパに始まった「物質エネルギー文明」の崩壊の予兆ではないか。
21世紀に入って完全に行き詰まった物質エネルギー文明に代わる新たな文明原理の創造に向けて、各分野を代表する研究者〈安田喜憲・大島直行・町田宗鳳・大橋力・中谷巖〉による強力対論集。
『文明のこころを問う』『文明の風土を問う』に続く、「比較文明学講義」シリーズの完結編。 
安田喜憲
1946年、三重県に生まれる。72年東北大学大学院理学研究科修士課程修了。広島大学総合科学科助手をへて、94年より国立日本文化研究センター教授に。専攻は地理学・環境考古学。環境考古学という新たな分野を、日本で最初に確立。主な著書に、「環境考古学事始」「森のこころと文明」「森林の荒廃と文明の盛衰」など多数。


2012年12月20日木曜日

 今日は毎月、お手伝いしてる、近くの小学校の特別支援クラスのクリスマス会でケーキ作りを楽しみました。皆、楽しそうに、真剣に思い思いのデコレーションで目を輝かせてました。

 このクラスは1年生から6年生までの9人が一緒に勉強をしてます。
高学年は体調の良い時は普通学級に入り勉強してます。
勉強、遊びにそれぞれが、個性豊かに表現してます。
彼らの素晴らしい将来性の有る素質を見出して、伸ばしてやれたらと、一緒に学んでます。

 校長先生と毎回、いろいろと、お話しますが、北海道の伊達市は日本でも最先端の養護支援教育が実施されてるそうです。我が伊達市も姉妹都市なので、先人に見習い、誰もが、夢を持てる街作りが成されることを、市民の一人として考え、行動したいと、再確認しました。

2012年12月19日水曜日

クロッキ勉強会

 定例の大町先生のクロッキー勉強会に参加した。
3分から20分の短時間で素描する。モデルは仙台から来て頂いてる。
毎回、モデルは違うが、均整のとれた肉体と、洗練されたポーズ。
どのように彼女の特徴を表現するか、線と光、影をリズミカルな手の動きに任せる。
集中が雑念を払い、ここち良い疲労感と快感が味わえる空間だ。

 今、大町先生の個展がパセオ通りの三桜社画廊で開催されてますので、
お時間有れば、お出かけください。






















       

2012年11月15日木曜日



先日、NHKで見た。衝撃的な響きだ。彼を紹介した記事を下記ご参照。

全聾の作曲家 佐村河内守

被爆者を両親として広島に生まれる。4歳から母親よりピアノの英才教育を受け、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし「もう教えることはない」と母親から告げられ、以降、作曲家を志望。中高生時代は音楽求道に邁進し、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳のと き、原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。
高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学ぶ。
1988年、ロック歌手として誘いを受けたが、弟の不慮の事故死を理由に辞退。聴力の低下を隠しながらの困難な生活が続く中、映画『秋桜』、ゲー ム『バイオハザード』等の音楽を手掛ける。1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びるが、この作品に 着手する直前に完全に聴力を失い全聾となっていた。抑鬱神経症、不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まな い頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
2000年、それまでに書き上げた12番までの交響曲を全て破棄し、全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。同年から障害児のための施設 にてボランティアでピアノを教える。この施設の女児の一人は、交響曲第1番の作曲にあたり佐村河内に霊感を与え、この作品の被献呈者となった。 2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を完成。



先日放映されたNHK番組「ただイマ!」で、
“奇跡の作曲家”と紹介され、大きな反響を呼んだ
佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏。

14年前、両耳の聴覚を失うというアクシデントに見舞われるも、
絶対音感を頼りに、交響曲を書き上げるなど、耳鳴りや発作と
闘いながら作曲活動に励んでおられます。

【記者:耳の不自由な状態で、どのようにして作曲をされるのですか】


音が聞こえなくても、「絶対音感」があれば作曲はできるのです。


【記者:絶対音感?】


普通は、例えばピアノを弾いて音を確かめながら、
譜面に書き込んで曲をつくっていきます。

しかし絶対音感が備わっていれば、ドがどんな音だとか、
それに♯(シャープ)がついたらどう変わるとか、
ピアノで確かめなくても分かるのです。

これは、子どもの頃に訓練することによって養われるもので、
大人になってからでは養えないといいます。



【記者:頭の中で曲をイメージして、それを譜面に書き込めるのですね】


はい。音の組み合わせ、楽器の組み合わせ、和声和音も
すべて頭の中で自由自在にできます。

ちょっとこのホルンの音を半音上げて
不協和音としたらどうなるだろうと思ったら、
そこの音だけ変えて百人のオーケストラを頭の中で鳴らしてみる。

実際に音を聞かなくても細部にわたって分かるのです。

先ほどの『交響曲第一番』は、17歳の時に作曲を始めたのですが、
破棄を繰り返して22年かけて完成させたものです。

普通は改訂を繰り返してつくり上げていくのですが、
私はすべて捨ててまた一からつくるのです。

違う、原爆の音楽はこんなものじゃないんだと。

ですからいまの『交響曲第一番』の譜面は、
まったく聞こえなくなった3年で一から
すべて書き上げたものでもあるんです。


【記者:あぁ、聞こえなくなってから】


私は自宅の音楽室で作曲をするのですが、
部屋の中には机が一つ置いてあるだけで、楽器は一切ありません。
人が見れば何もしていないように見えるでしょうね。

頭の中だけの作業ですから。
頭の中に降りてくる曲を書き留める作業ですから。


ただ、私には曲が降りてくるのを妨げるものがあるのです。


【記者:それは何ですか】


耳鳴りです。強烈なノイズです。
皆さんからはまったく分からないでしょうけれども、
私は自分の周りを分厚い雑音の壁で
360度囲まれているような感じでいるのです。

夜中に番組の放送されていないテレビのチャンネルをつけると、
砂の嵐のような画像とともにザーッという
不快な雑音が流れてくるでしょう。

あの音をものすごく大きくして四六時中
ヘッドフォンで聞かされているような感じなんです。


【記者:そんな状態で生活を……】


夜も眠れません。ですから私は精神安定剤を飲んでいるんです。
気が狂わないために薬で無理やりボーッとさせているようなものです。
ボーッとしながらもチャンスを見て作曲しなければならないのです。


【記者:作曲をやめようと思うことはないのですか】


それはないです。我慢できない時は死のうと思いました。
作曲もできないのであれば、生きている価値はないので
死んだほうがいいだろうと。

作曲というのは、天から降りてくる音楽を
キャッチするようなものです。

ですからなんとかノイズを忘れて集中しようとするのですが、
ここまで降りてきているものがノイズのために聞き取りにくい。
作曲中は常にそれとの闘いですね。

【記者:耳が聞こえなくなったことは、
    ご自分の音楽にどのような影響をもたらしましたか】


闇の中の光、これを発見することができました。

私は光を閉ざした暗い部屋の中で、
激しい発作に繰り返し見舞われました。
しばしばトイレにもたどり着けず、
糞と尿にまみれるのでオムツをして……。

自分はもうなんだか、人間じゃないように思われてきました……。
本当に深い闇に包まれている感じで……。

そんな折に、ご縁をいただいて、
複数の障害のある子たちの施設を訪れる機会があったのです。
そこの子たちは、私が何者かをまったく知りません。

でも、また会いたいって純粋な気持ちで求めてくれるんです。

次はいつ来てくれるのか、何月何日何時何分かまで約束させられて、
感動して、それから通い詰めるようになったんです。

それでも、発作がひどい時はどうしても行けなくなる。
そうしたら、そこはキリスト教系の施設なんですが、
子どもたちは自分のことは構わず、
守さんが元気になりますようにと
朝も昼も晩も祈ってくれているというんです。


施設の方からそれを聞かされた時、
私は闇の底に光を感じたんです。


【記者:あぁ、闇の中に光を】


その時に思ったんです。

闇が暗ければ暗いほど、小さな光の尊さを
感じることができるんだと。

その小さな光というのは、日常の何でもないようなささいな喜びとか、
当たり前と思っているようなことです。


明るい光の中で満たされた毎日を送っていたら、
その小さな光に気づけず、ありがたさも分からない。

地獄の底の暗闇の中をさまよっていたからこそ、
私は初めてその小さな光の尊さに気づくことができたんです。


【記者:暗闇の底にいたからこそ】


ですから私の音楽も、ずっと苦しみが続いて、
ふっとそこに美しいメロディが現れる。
そんなつくり方になっているんです。

先日広島に行って改めて思いました。
原爆が落ちて六十数年というと、
ほんのちょっと前のことだったんだと。
そんなに昔ではない過去に、大勢の人が一瞬にして消えたんです。

ところが、そんな悲惨な体験をした町に
いま住んでいる若者たちは、すべてではないけれども、
平和が当たり前、戦争がないことが当たり前という空気に
浸ってしまっている。

これは本当に怖いことだと私は思います。

私はそういう人たちに言いたいんです。「闇を背負いなさい」と。


【記者:闇を背負う?】


時には原爆資料館に行ってみたり、被爆者の体験を聞いたり、
いろんな本を読んで、世界の飢餓や、戦争のこと、
障害に苦しむ人のことを知ってほしい、理解してほしい。

もちろん苦しいですよ、闇は。
自分から地の底に下りていくのは辛いです。

私みたいな病気とか障害は、当然ないほうがいい。
でも、それを知ることによって、
平和や健康がいかにありがたいことかを理解することが
大事だと思います。

闇を知らなければ、小さな光は見えないし、
その尊さは分からないのです。

2012年11月2日金曜日


ファイル:William James b1842c.jpg

面白い新聞記事を見たので、少し考察する。

 私の何人かの友人会社経営者は現状打破に苦悩しており、なかなか解が見出せない。自己を取り巻く環境の激変に囚われ、自己を見失いがちで有る。
解は回りでは無く、内に存在することを示唆してる。

今回の日経、世界経営者会議で、奇しくも、両改革者(稲盛和夫カルロス・ゴーン)は同一キーワードを掲げた。


”目指すべきビジョンを描く”→志
”ビジョンをメンバーと共有化”→同じ土俵で議論
”実行するのは人、人間性”→人間性を育てないと永続は無い
”実現の為のシステムの構築”→見える化、問題の透明性

 10余年の中国駐在で強く感じたのは、このように国土が広く、人口が多く、人種も多い国で尚且つ外国と陸続きな条件下で人民を纏め、統率する方法は?毛沢東はクリアターゲット(ビジョンは明確な単純な言葉で表現)を掲げ、率先垂範した。彼は詩人でもあり、彼の文章、演説は人民を魅了した。彼の晩年は迷走、頓挫したが。


意識が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。
―ウィリアムジェームス
はじめは人が習慣を作り、それから習慣が人を作る。
―ドライデン
人間は習慣の奴隷である。何人も、この命令者には抵抗しえない。
このゆえ、成功を願うものは自分で習慣を造り、自らそれに従わなければならない。オグ・マンディーノ

稲盛和夫

リーダーとは
第1は組織の目指すべきビジョンを高く掲げる人
第2は組織のメンバーとビジョンを共有できる人
第3は人間性だ
第4は全社員が参加できる管理会計システムの構築

会長就任の挨拶で中村天風の言葉を紹介した。
「新しい計画の成就はただ不屈不撓(ふとう)の一心にあり。
さらばひたむきにただ想え、気高く、強く、一筋に」

自分たちのためだけではない。日航再建は社会のためにも必要だと。

カルロス・ゴーン

原価低減やリストラの結果再生できたのではない
①あるべき姿、ビジョンを描いたから再生できた。
②そのビジョンを世界中の従業員が共有し同じベクトルに向かっていった。
③従業員のモチベーションを高め、動機づけするような目標を立てた。
企業提携で最も重要なのは、組織づくりではなく、心構えだ。両社がともに利益を享受するには何ができるかを互いに考える。それを実行するのは人であり、組織ではない。





日本航空名誉会長「不屈の精神で日本復活」 

2012/10/31 3:30
 古今東西、リーダーの力量次第で国も企業も栄枯盛衰の行方が決まる。京セラやKDDIを立ち上げた50年を超える経営者人生を踏まえると、リーダーは次の4つのことを果たす人だと考える。
日本航空名誉会長 稲盛和夫氏
日本航空名誉会長 稲盛和夫氏
 第1は組織の目指すべきビジョンを高く掲げる人。困難に直面しても目指すべきただ一点に向かって集団を率いるのがリーダーだ。第2は組織のメンバーとビジョンを共有できる人。社員がビジョンに心から賛同しミッションに取り組まなければならない。
 第3は人間性だ。人間性を高めるだけでなく、いわゆるフィロソフィーを組織に広める。これが組織を一つにする。最後に業績が向上する仕組み作りの能力もリーダーに問われる。具体的には全社員が参加できる管理会計システムの構築が重要と考える。
 以上4つのポイントを日本航空再建でいかに実践したかお話ししたい。
 10年2月に日航会長に就任した時、企業再生支援機構の手などによりビジョンに相当する事業再建計画ができていた。給与や人員削減、路線縮小など厳しい内容で報道でも実現性を疑う見方が多かった。
 二次破綻も指摘される中、再建したいという強い思いから、会長就任の挨拶で中村天風の言葉を紹介した。「新しい計画の成就はただ不屈不撓(ふとう)の一心にあり。さらばひたむきにただ想え、気高く、強く、一筋に」。計画達成はくじけず強烈に思い続ける心にかかっている。決意と覚悟を社員に示した。
 次に日航再建の3つの大義を掲げた。(1)二次破綻すれば日本経済に悪い影響(2)残された社員の雇用を守る(3)インフラ手段として日航は重要――。自分たちのためだけではない。日航再建は社会のためにも必要だと。
 同時に会社の目的を「全社員の物心両面の幸福追求」と定義。社員が誇りとやりがいを持てれば、結果として業績や株主価値向上に貢献できる。無報酬で再建を引き受け懸命に取り組んだことも社員の協力につながったようだ。
 フィロソフィーを共有する研修で幹部は当初違和感を持っていたようだ。内容は「謙虚であれ」など。日航のエリートには幼稚すぎたのだろう。しかし、人として基本的なことができなかったから破綻につながった。
 昨年4月から管理会計システム、アメーバを本格運用し、月1回業績報告会を開催している。全部門の業績をオープンにし、計画との乖離(かいり)などを厳しくチェックしており、(経営状態を)数字で表現できるようになった。
 11年度の航空会社の売上高営業利益率の平均は1%程度。日航は2000億円を超える営業利益をあげ同利益率は17%と驚異的な実績を上げた。債権放棄などで金融機関の協力もあった。しかし、最大の復活要因は倒産という死の淵を見た社員が、再建を心から願い懸命に努力したからだ。
 バブル崩壊後、日本経済は低迷している。円高や高い法人税率など逆風の要因も多いが、技術や豊富な資金、優秀な社員など日本企業は恵まれている面も多いはず。悲観論に陥ることなく自信をもっていい。リーダーはビジョンや目標を掲げ、不屈不撓の精神で集団を率いなければならない。
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日産自動車社長「情熱と共感、変革の原動力」 

2012/10/31 3:30
 ――日産自動車に来てからの13年間を振り返って、どう評価するか。
日産自動車社長 カルロス・ゴーン氏
日産自動車社長 カルロス・ゴーン氏
 「日産にとっては目覚ましい旅、冒険だった。本当の再生だったと言える。原価低減やリストラの結果再生できたのではない。あるべき姿、ビジョンを描いたから再生できた。そのビジョンを世界中の従業員が共有し同じベクトルに向かっていった。従業員のモチベーションを高め、動機づけするような目標を立てた。これを維持できる限り、日産の将来は明るい」
 ――仏ルノーとの連合が機能している理由は。
 「企業提携で最も重要なのは、組織づくりではなく、心構えだ。両社がともに利益を享受するには何ができるかを互いに考える。それを実行するのは人であり、組織ではない。ビジョンを掲げ、人々のモチベーションを上げ、企業への忠誠心を促す。組織はその後についてくる。組織やプロセスを優先させると、残念な結果になる」
 ――変革をリードする人材の見極め方は。
 「変革を主導するのは、情熱のある人材だ。情熱がなければ、革新は生まれない。変革には多くの戦いが必要。それを乗り越えないと明るい兆しはみえないものだ。そして、共感力だ。つまり周囲の人々と心を結びつけ、情熱を分かち合う。人の声に耳を傾け、心をつかめる人材だろう。変革者は専門知識を熟知し、情熱をもって相手を説得できなければならない」
 ――足もとの世界経済をみると、欧州、中国やインドなど新興国にも陰りがみえる。
 「将来の計画を立てる際は、予想外の出来事が起こりうることを織り込んでいる。だが全てを想定はできない。例えば、日中関係の緊張の影響は想定していなかった。円高是正に成果がでないとも考えていなかった」
 「グローバル経済は成長を続ける。2012年の自動車の全体需要は11年よりも拡大し、13年も過去最高を更新する。欧州と日本は鈍化し、市場拡大の支障となっているが、中国、ロシア、インドなど新興国は順調で日欧の不調を相殺できる」
 ――反日感情が高まる中国市場の先行きをどうみているか。
 「中国経済は向こう5年を予測しても経済成長に問題はない。日欧に比べ債務が少なく、内需も強い。今後も世界経済の成長のエンジンとなっていくだろう。中国市場の重要性に変わりはない」
 「政治は理屈だけでは動かないが、感情論だけに支配されるものでもない。日本と中国は補完性があるという共通の意識をもつべきだ。最終的には緊張関係を乗り越えて、持続可能な関係を築いていける」
 ――グローバル化が加速するなか、日本の役割をどうみるか。
 「日産は日本企業だ。国内で活動するのが最善なのは間違いない。ただ、日本には国内で事業活動を促すインセンティブがない。最大の障壁は円高だ。輸出が極めて難しく、日本での活動を低下せざるを得ない」
 「今は円高ではないという学者の指摘もある。だが、経営者は皆、円高に苦しんでいる。雇用創出しているのは学者ではなく、我々企業だ。1ドルは100円が妥当な水準だろう。当局には円高是正に向け『がんばる』という言葉だけでなく、『結果』を出してほしい」
(聞き手は日経産業新聞編集長 井口哲也)
 カルロス・ゴーン氏 仏ミシュランなどを経て、1999年に日産自動車入社、2000年に社長就任。05年仏ルノー社長、09年会長。経営危機に陥った日産を再建。「多様性重視」の経営を掲げ、新中期経営計画では新興国の開拓に注力し、経営のグローバル化を加速する。58歳
 稲盛和夫氏(いなもり・かずお) 1955年鹿児島大工卒。59年に京都セラミツク(現京セラ)、84年には第二電電(旧DDI)を設立。2000年に第二電電と他2社との合併でKDDI発足。10年日本航空会長就任。12年から現職。同年9月に東証1部に日航再上場を果たす。80歳

2012年10月29日月曜日

新潟で末娘の結婚式
遠方各地から子供達、親戚、娘友人が駈けつけて頂き、華やかに挙式を上げさせて頂き、感謝であります。相手の家族との新たなお付き合いも始り、多くの出会い、絆を大切にしたく、今後とも皆様の末永いお付き合い、幸せを祈念申し上げます。

2012年10月26日金曜日



 近くの東日本生涯学習センターで岡田幹彦さんの歴史偉人伝、ケネデイー大統領が尊敬した
上杉鷹山公の講演を拝聴した。
今回、2度目の同じ内容の講演だったが、講師の迫力有る涙しての熱弁に再度、感激涙した。
一昨年前に、米沢で記念館、お墓、儒学者・細井平洲を迎えた場所、対面した家屋も見学したが、
改めて感動が甦った。

現在の日本の世相(経済低迷、借金まみれ)、リーダー不在に重ね合わせると、日本再興のヒントがここに有ると確信した。
リーダーとは如何に国民、部下を我が子を無償の愛で見守る父母の姿勢がもっとも重要で、
国、会社、商店の発展は単なる物質的な繁栄では永続せず、民の資質(道徳)向上が伴わないと、永続しない。リーダー自ら範を示すことで、民は信頼し、民の自らの力で再建を実現する。
改革にはリーダーの強い意志、彼の言葉である『なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』の信念である。
下記は山形県のHPから抜粋した。

不景気の世に見る米沢藩主・上杉鷹山公の経済改革



岡田幹彦

昭和21年、北海道に生まれる。國學院大学中退。学生時よりわが国の歴史・人物について研究を続け、月刊「明日への選択」に数多くの人物伝を連載するとともに、全国各地で「歴史講座」「歴史講演会」を行っている。『歴史街道』『歴史通』などにも寄稿。平成21 ~ 22 年、産経新聞に「元気のでる歴史人物講座」を連載(103回)。現在、日本政策研究センター主任研究員。

1961年1月20日、ケネディー大統領が、第35代アメリカ大統領に就任時の記者会見場。
「大統領が、いま日本人で一番尊敬する人は、誰か」と日本人記者から質問された時だ。
即座に「それは上杉鷹山である」と応えたことに端を発する。

内村鑑三の「代表的日本人」。

西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮上人の5人の日本人を海外に紹介した本だ。元は英文でかかれたものである。この本をケネディー大統領は読んでいた。


上杉鷹山とは?
宝暦元年(1751)7月20日に、高鍋藩主・秋月佐種美(たねみつ)の2男として江戸屋敷で生まれた。
幼名は松三郎、または直松。16歳に元服して治憲(はるのり)と改名。
家督を息子に譲り、隠居後52歳に鷹山(ようざん)と名乗る。

旧暦の1769年8月23日に幸姫(よしひめ)と結婚し、10月27日に19歳の時に米沢へ入部する。
江戸の正室・幸姫に婿養子として嫁ぎ第9代の米沢藩主となったが、幸姫に至っては生まれつき
心身の発育が遅い障害者で30歳で病死。普通の生活を送れず2人の中には子は生まれなかった。鷹山はこの妻を回りの人が驚く程に優しく愛した。

米沢藩の方の側室にはお豊の方がいて、生まれた子・治広(はるひろ)には35歳で家督を譲り
第10代米沢藩主に継がせる。

鷹山公は米沢藩で反対勢力に押されながらも大倹約令を実行し、米沢の財政を立て直し
発展の基礎を築いた人物である。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い
藩の手本として生涯続けた。故に鷹山『公』と付けられ呼ばれるのが一般的である。


米沢藩の借金地獄と財政圧迫の原因


  • 1.慶長6年(1601)の関ヶ原合戦後に、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減石されしまった。

  • 2.上記記載により石高を大規模に減らされたが、上杉家の異常に多い家臣数が変わらなかった。寛政5年(1793)の分限帳によれば家臣数が5398人とある。会津藩時代の頃とほとんど変わらぬ人数だ。それで領土が、会津120万石から米沢30万石に減らされ今で言うと大赤字の出る会社なのに対し、社員をリストラにしなかったのだ。

  • 3.第3代・上杉綱勝が後継者を定めず急死し、吉良上野介の子が上杉の家督を継ぐ際に
     手続きの申請に不手際があり、米沢30万石から15万石に減石されてしまった。

  • 4.上杉鷹山が家督を継ぐ前の、歴代の藩主や財政担当者が、財政状況に対し無関心だった。

  • 5.上杉家は古い格式を重んじ、着る・食べる・乗る・習慣的な行事に費用は惜しまず金を使った。上杉鷹山の時代になると借金は雪達だるま式に増え、米沢藩の借金は約16~20万両(約120億円)ほどの借金に膨れ上がっていたと商人による記録がある。さらに高金利でお金を借りていたので、果たして120億円で済んでいたかどうかすら不明だ。当時の米沢藩にとって100~120億の資金は、米沢藩の総支出の約6年分にあたるものでいかに規模が大きすぎる借金だったかは容易に見てとれるものだ。江戸の商人からは信用を失い、金を借りるのが次第に困難になっていった。米沢藩では借金が返せず、古い木や桜などで借金を返すなどといった方法でしかお金を返せないほど貧しかった。当時は博奕死刑令(ギャンブル)などもあったほどだ。鷹山公が継いだ当時は、実際に自己破産書を書いて幕府に提出するかどうか迷っていた。



上杉鷹山公に見る財政回復の建て直し


経済とは政により民を救うことで有る

  • 1.人員の整理

  • 2.田畑の整備と、漆・桑・楮の百万本の栽培計画

  • 3.殖産興業に力を注いだ

  • 4.米織物の工場を開いた

  • 5.実用の学力と人材育成

  • 優秀な人材育成も必要だと儒学者・細井平洲(へいしゅう)を江戸から米沢に招き
    学問を指導して貰った。米沢藩にも儒学者はいたが、鷹山公は役に立たない学問を身に付けても
    意味が無いと考え、役に立つ学問が必要だと細井平洲先生に熱意による説得で頼んだようだ。

  • 6.上書箱の設置                                                 上書箱と呼ばれる意見を入れる箱を設置し、誰でも自由に意見を書くことを許した。毎月2回箱を開け、殿様自ら内容を眺め広く民意を把握し、良い意見は取り入れたのだ。さらに今までは公開しなかったが、藩の財政支出を領民に公開し共に財政の建て直しを考えたという訳だ。

  • 7.神仏に誓い願った


”伝国の辞”


 現在でも米沢市の市拝命時に伝承されてる

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならないものです。

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民で
はありません

『受次(うけつぎ)て国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは 民の父母』



2012年10月24日水曜日



 伊達市は3.11の震災後、放射能汚染濃度が高く、柱沢の子供達は外での活動を一日2時間と制限され、不自由な生活を強いられている。今回、新潟県見附市のご配慮で移動教室が実現でき、日頃ボランテイア支援させて頂いている、柱沢小学校の生徒達と移動教室の引率ボランテイアで大いに満喫し、子供達から勇気を頂いた。


柱沢小学校移動教室 IN 新潟県見附市新潟小学校

  
期間:平成24年10月16日~19日 3泊4日
参加者:5年生  8名(男3、女5)
6年生 19名(男9、女10)(内のびすく3名)総勢27名
移動教室の実現:仁志田伊達市長と久住見附市長が勉強会等で知り合いに成り、“NPO法人地域交流センター”と“森の贈り物研究会“と保原小学校建設設計に携わった長澤東洋大学教授と”海・海ハウス“のご協力、募金、他ご支援で実施された。教授、会の代表、ハウスの館長(料理長)と歓談したが、子供達への篤い想いを感じた。
         伊達市の9校から5,6年生約170人の児童参加で、7回に分かれ”海・海ハウス“に3泊4日の宿泊で、見附市内の7校の小学校で勉強、交流した。
        柱沢小学校は見附市でも一番古く伝統有る素晴らしい新潟小学校で勉強交流。
今回は“のびすく“3名の見守り、楽しく活動が出来るよう、お手伝いさせて頂いた。





































今回は毎日が感動の移動教室でした。初めて、”のびすくの”子供達から“一朗さん”と呼ばれた。
  やっと、心が通うことが出来たと感じた。今回は子供達と共に生活、勉強、運動、歌、食事、等、一緒に過ごし、一番感じたのは子供の無限の可能性のパワーです。先生方の日頃のいろいろなご指導が素晴らしい成果を出してることを感じました。同時に、精一杯の指導の後は、多くの問題は子供達を信じて、子供達に委ねると、彼ら独自の新しい方法で問題解決し、更なる発展が見られるのではないかと確信しました。基本的なレールは引くが、新たな延長の素晴らしいレールは子供達が必ず引くことが、出来ると思いました。

   このような感動の生活を体験出来ましたことを改めて感謝申し上げます。
  先生方の絵顔、健康、元気が、子供達の成長を大いに育むと信じてます。
  
  本当にありがとうございました。























2012年10月23日火曜日



「発見の10項目」

 今、日経新聞の”私の履歴書”で根岸さんが執筆されているが、素晴らしい内容なので、東京で開発に苦労してる息子にメールを出した。

 発見の遠因、原泉は”ニーズ”、”願望”が大切と有る。福島県は3.11大震災の地震、津浪、原発事故汚染、風評で古里から遠方へ避難して仮暮らしを余儀なくされておられる方が多くいる。
そのような方々が”ニーズ”、”願望”を見出し、明日への新たな発見に進むのはかなり困難と思われるが、先ごろ来日された、ダライ・ラマ法王の講演内容は勇気付けられる。現状から逃避するのでは無く、直視し、楽観的に未来を見据える心構えを示唆してる。

 「避難してる困難な状況で平和な心を作っていくにはどうしたらよいか、」という質問に対し、
 法王は、「知性を使い、現実を直視することで心の平和が得られる、」と答えた。
 「心が平和になれば、勇気と決断力という内面の力が増し、物事を前向きに、バランス良く捉えられるよ うになる、」と語った。

 「ここでは放射能の脅威が広がっていて、幸福感が得られない、 」と述べた。
 法王は言った――「そうしたケースでは、私はいつも、悲しみを分かち合います。私たちには人間的知性 が備わっているので、同じ人間社会に属する社会的な動物として、苦しみのなかにいる人々を助けるこ とができるのです。あなたは一人でない、全人類があなたに味方しているといつも考えるようにし  なさい。不幸は、恐怖と無力感から生まれるからです」。

 法王は、「この世の主だった問題は、十全な現実認識能力を持たない人間が人為的に作り出したものだ、と言った。「現実を認識せず、問題を一方向からだけ捉えようとすれば、問題に対処するアプローチは非現実的なものになります。問題に対処するには、それを全体的な観点から見直す必要があります」。

2010年のノーベル賞受賞者 根岸英一 博士

NHKスペシャル「2011 ニッポンの生きる道」

 「悲観的な議論からは何も生まれない。前を向いて建設的に考えるべきだ」という博士の前向きな言葉から、番組は始まる。

 そしてニッポンが今も保持する「強さ」を確認しながら、しかし世界経済が大変革期を迎える中で「安くていいモノをこつこつ作ってさえいれば報われる」というこれまでの発想を根本的に変える局面にきていることを指摘。

 現場の取材を織り交ぜながら、どんな転換をしていくべきか専門家が具体的に提言していく。
そして就職難に直面するなど未来を描けない若者にも、根岸博士が熱いメッセージを送る。



①もともとの”ニーズ”がある。
②あるいは”願望”がある。
③どちらか、あるいは両方が元となって、実現、あるいは解決のための

  ”作戦”を立てる。

その作戦を膨らませたり、ブラッシュアップしていく過程で、
④”知識”や

⑤”アイデア”や
⑥”判断”などが詰め込まれ、

⑦”意志力”や

⑧”不屈な行動力”がその推進エンジンとなる。
⑨そうやって発見へ向けての”探求が、系統立てられ、進化していく。”
⑩最後に、偶然性による”セレンディピティ(幸福な発見)”があって、
  初めてまたとない価値のある「発見」という形になる。




「もう一度人生をやり直せるならどうしますか?」

根岸博士は一瞬微笑んだ後でまるで若者を説得するかのような勢いで話し始めた。

「私の人生は幸せなものだった。失敗も多いがうまく行ったことだけを覚えている。こんな楽しいことは無い。


 発見が楽しい。発見に出会った私の研究室の学生は本当に体が震えていた。
それでお金をもらえる。好きなことで飯が食える。

 やり直せるなら、もう一度この人生をやりたい。私には食糧問題、資源問題、環境問題を一挙に解決する研究アイデアがある。その研究をやりたい。ぜひとももう一度この人生をやりたい。」


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