2012年2月23日木曜日
映画『孔子の教え』予告
2012年2月21日火曜日
我が校の子どもたちは、とてもがんばっていて、
例年、ほとんどの学年で偏差値50以上の結果を出しています。
私の思いとしては、本人の持てる力以上の結果であれば十分と考えています。
偏差値が50以上いかなくても、
本人が努力していることが結果として出ていれば………
このことを一番大事にしたいと考えます。
反対に、50以上の素晴らしい偏差値でも
本人の努力が見られないようであれば
だめだと思います。
マスコミや世間では、どうしても数値だけが一人歩きします。
一人一人の子どもの姿が、平均という表現で消えてしまいます。
私たちは「平均」で生きているわけではないのに。』
2012年2月20日月曜日
2012年2月15日水曜日
2012年2月13日月曜日
SF作家 小松左京
(未来)を想像したものであるそうです。
それが、神戸の大震災が起きた時に、何もできなかった自らを責め、繰り返さないためにも、未来の人たちに何らかのことを伝えようと、現地を歩き回り、いろいろな人たちへ取材をし、新聞のコラム欄に記したそうです。しかし、倒れないと言われた高速道路に関し、ある高名な学者にも連絡を取ったところ、「思ったより大きい地震が来たから倒れたのだ、我々に責任はない」と取材を断られたそうです。
より良い未来へとつなげていくには、知識プラス人間特有の能力である想像、あらゆる可能性を想像する力が大切であるということでした。また、分かれ分かれになった専門分野を統括することも大切だ、とのことでした。
今回の地震・原発事故時に連発された「想定外」という言葉を取り上げて、学者・専門家である以前に人間としてどうなのか、と、問いかけてました。
日野原重明(聖路加国際病院理事長、名誉院長)
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医師としての原点を語る時、外せないのが、
医局に入ったばかりの頃、最初に担当した
結核性腹膜炎の十六歳の少女です。
彼女には父親がおらず、母親が女工として働いていました。
家が貧しくて彼女自身も中学に行かず働いていたのですが、
ある時、結核を患って入院してきたんです。
その病室は八人部屋で、日曜になると
皆の家族や友人が差し入れを持って見舞いにくる。
でも彼女を訪ねてくる人はほとんどいない。
母親は日曜も工場で働いていたから、
見舞いにもなかなか来られなかったんです。
私は日曜になると教会の朝の礼拝に出席するため、
同僚に彼女のことを頼んでいました。
ところがある時、その同僚から
「日野原先生は、日曜日は
いつも病院に来られないから寂しい」
と彼女が言っていたと聞かされましてね。
以来私は朝教会に行く前に、病室へ顔を出し、
それから礼拝に出るようにしたんです。
これはその後の私の医師としての習慣にもなりました。
ところが当時は結核の治療法がなかったために、
どんどん容態が悪くなっていってね。
非常に心配していたんですが、ある朝様子を見に行くと、
「先生、私は死ぬような気がします……」
と言うんです。私は
「午後にはお母さんが来られる予定だから、頑張りなさい」
と言いました。
すると彼女はしばらく目を閉じて、
また目を開いて言葉を続けました。
「お母さんはもう間に合わないと思いますから……、
私がどんなにお母さんに感謝していたかを、
日野原先生の口から伝えてください」。
そうして手を合わせた彼女に、私は
「バカなことを言うんじゃない。死ぬなんて考えないで!
もうすぐお母さんが見えるから、しっかりしなさい」
と言って、その言葉を否定したんです。
ところが見る見るうちに顔が真っ青になっていったので、
私は看護師を呼んで「強心剤を打って延命しよう」と言い、
弱っている彼女に強心剤をジャンジャン打った。
そして「頑張れっ、頑張れっ!」と大声で叫び続けた。
彼女はまもなく茶褐色の胆汁を吐いて、
二つ三つ大きく息をしてから無呼吸になりました。
私は大急ぎで彼女の痩せた胸の上に聴診器を当てましたが、
もう二度とその心音を捉えることはできませんでした。
私は彼女の死体を前にして、どうしてあの時
「安心して成仏しなさい。
お母さんには、私があなたの気持ちを
ちゃんと伝えてあげるから」
と言ってあげられなかったのだろう。
強心剤を注射する代わりに、
どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、
と悔やまれてなりませんでした。
私は静かに死んでいこうとする彼女に、
最後の最後まで鞭を打ってしまったわけです。
この時に、医師というのは
ただ患者さんの命を助けるのじゃない。
死にゆく人たちの心を支え、死を受け入れるための
援助をしなければならないのだと思いました。
その強い自責の念が、
後にターミナルケア(終末の患者へのケア)や
ホスピスに大きな関心と努力を払い、
人々が安心して天国や浄土に行くにはどうしたらよいかを考え、
そういう施設をつくる行為へと繋がっていったんですね。
2012年2月12日日曜日
『聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―』予告編
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)は、新潟県長岡藩出身の大日本帝国海軍の軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。
ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで、太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから、海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。
面白い文章を見つけました。小さな商店が大型量販店の進出に対抗して、利益を確保して発展した実例だ。方策は大型量販店が出来ない「高売り」、「きめの細かいサービス」。客の困ってることに直ぐに対応、対応のしかけのアイデの実践に有った。当たり前のことを実行出来るかは、強い信念、ポリシーの確立。
1、現状把握
1)大型量販店が六店の進出、大型店の粗利率の平均は約十五%、
地元の電気屋が約二十五%程度
2)売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれる。
3)この頃当店は約三万四千世帯のお客様。高齢化も進んでいました。
2、対応への目標の設定
1)十年間で粗利率を十%上げ、約二十五%から三十五%にする。
3、方策
1)客層の絞り込み。商圏をなるべく狭くする。ターゲットを五十代からの
富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小する。
2)絞り込んだ一万二千世帯のお客様には、他店では真似できないような
サービスをする。
4、具体策の実施
1)月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。これによって、お客様と
の深い人間関係ができ、商品が少々高くても購入してくださる方が増える。
2)訪問の際にお聞きするのは、お客様が生活される上でのちょっとしお
困り事。
3)本業とは無関係なことも徹底してやらせていただくようにしたのです。
4)会社のモットー
「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」
「お客様のかゆいところに手が届くサービス」
「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」
5、ピンチをチャンスに
いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、
本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、
チャンスが見つかることも少なくないはずです。現状を打破する発想は、
ピンチの中にこそ生まれる
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「小さな電気屋の明るい経営術」
山口勉(でんかのヤマグチ社長)
地元に大型量販店がくる――。
こんな話が私の耳に飛び込んできたのは、
町の電気屋「でんかのヤマグチ」が東京都町田市で、
創業三十年を過ぎた平成八年でした。
「噂で終わってくれ」
と願ったのも束の間、近隣にあっという間に
六店もの大型量販店ができたのです。
三十年以上商売をしてきた経験から、
売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれ、
事実、三、四年の間に借金は二億円以上にまで膨れ上がっていきました。
まさに、会社が存続するか否かの瀬戸際です。
生き残るためにはどうするか。
悩みに悩んで私が出した結論は十年間で粗利率を十%上げ、
三十五%にすることでした。
当時大型量販店の粗利率の平均は約十五%で、
地元の電気屋が約二十五%程度でした。
周りからは、
「そんなことできっこない」
という声が
大多数でしたが、それ以外に
生き残りの術は浮かばなかったのです。
私がまず決めたのは、大型量販店のように
商品を安売りするのではなく、
逆に「高売り」することでした。
この頃当店は約三万四千世帯のお客様に
ご利用いただいていましたが、
これだけの数では本当の意味で
行き届いたサービスはできません。
そのため商圏をなるべく狭くし、
ターゲットを五十代からの
富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小しました。
そして一万二千世帯のお客様には
他店では真似できないようなサービスを
とことんしようと決めたのです。
顧客数を三分の一に減らした分、
月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。
これによって、お客様との深い人間関係ができ、
商品が少々高くても購入してくださる方が
増えるだろうと考えたのです。
訪問の際にお聞きするのは、
お客様が生活される上での
ちょっとしたお困り事についてでした。
ひと昔前の日本では何か困り事があると
隣近所で助け合い、支え合うという
相互扶助の精神が息づいていました。
私が着目したのはこの部分です。
家電製品のデジタル化が進む一方で、
地元民の高齢化もどんどん進んでいました。
当然、家電の操作が思うようにできない方も多くなりますが、
お客様のお困り事はそれだけに限りません。
ご高齢、体の不自由な方は買い物に行くのも大変です。
そのため、当店では本業とは無関係なことも
徹底してやらせていただくようにしたのです。
お客様の留守中には植木の水やりをしたり、
ポストの手紙や新聞を数日保管したり、
大雨では代わりに買い物にも出掛けたり。
これらを我われは「裏サービス」と呼び、
お代は一切いただきません。
会社のモットーも
「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」
「お客様のかゆいところに手が届くサービス」
「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」
などに定め、
「どんな些細なことでも言ってくださいね」
とお声がけをしながら十数年、社員パート合わせて
五十名で徹底して取り組んできました。
ただしお客様との信頼関係は
一朝一夕にできるものではありません。
私が粗利率の目標達成期間を一年や二年でなく、
十年としたのもそのためです。
悪い評判に比べ、よい評判が広がるには
かなりの時間がかかります。
しかし、この姿勢を愚直に、ひたむきに
貫いていったことで、結果的に
八年間で粗利率三十五%を達成することができました。
その目標達成のため、とにかく無我夢中で
取り組んできた私ですが、
この方向でいけるかなとなんとか思えるようになったのは、
粗利率を十%上げる方針に転換して
三、四年が経過してからのことでした。
経営者として小さな電気屋が六店舗もの
大型量販店との商売競争に勝つために
いったん決断はしたものの、
本当にそんな粗利率をクリアできるのか、
お客様は本当に買ってくださるだろうか、と悩み続けました。
「この判断は正しい」
「いや、ダメだ。うまくいかない」
という思いが年中、頭の中で争いをしているような状態……。
しかし、いつも最後には
「この道が正しいんだ」
という考えが勝ちを占めるよう心掛けました。
肝心なのは一度この道を行くと決めたなら、
途中で迷わないことではないでしょうか。
思うように結果が出ないと、
あの道もこの道もよさそうだと目移りしますが、
そのたびに
「成功するまでやってみよう」と自分に言い聞かせる。
急ぐことはなく、ゆっくりでいいから
とにかく一歩一歩を着実に歩んでいくことが大事だと思います。
会社の存続が危ぶまれた大型量販店の出現から十四年。
しかしこの間、赤字決算が一回もないことには
我ながら驚きます。
さらに、一生返せないと思っていた
二億円以上の借金を三年前に完済することができました。
人間はとことんまで追い詰められ、
地べたを這いずり回るような思いで
必死になって取り組むことで
活路が開けるものなのかもしれません。
もしあの時、量販店がこの町田に来ていなければ、
今日のような高売りをしているとは考えにくく、
そう考えると逆にゾッと寒気すらします。
現在の日本も不況が続き、
出口の見えないような状況が続いています。
しかしデメリットばかりに目を向けて
内向き思考になってしまっては、
せっかく転がっているチャンスも逸してしまいます。
いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、
本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、
チャンスが見つかることも少なくないはずです。現状を打破する発想は、
ピンチの中にこそ生まれるのだと思います。
2012年2月11日土曜日
2012年2月10日金曜日
2012年2月5日日曜日
2012年2月4日土曜日
2012年2月3日金曜日
伊達市市民ホール(仮称)建設計画(策定中)
また、全国大会規模の各種催しや消防団員全員が集まれるような施設が現在伊達市にはないため、伊達市民が一堂に会せる施設として、伊達市市民ホール(仮称)建設を検討しております。
伊達市市民ホール(仮称)建設検討を進めるために、平成23年9月に伊達市市民ホール(仮称)建設検討委員会を組織して、検討を進めています。
平成24年3月末頃までに、約7回の検討委員会を開催して「基本構想」をとりまとめる予定です。
伊達市市民ホール(仮称)検討委員会
伊達市市民ホール(仮称)建設に関して、専門的な見地からの検討を行い、 広く市民等から意見、提言を求め、計画の策定に関し必要な審議を行うため、 伊達市市民ホール(仮称)建設検討委員会を設置しました。
委員会は、次の事項について調査、検討および協議します。
(1) 市民ホールの設置に関すること
(2) 基本構想、基本計画についての意見及び提言、答申に関すること
(3) 基本構想、基本計画についての審議に関すること
(4) 実施設計、管理運営計画等に関すること
(5) その他委員長が必要と認める事項
以下は各検討委員会の会議資料および会議録です。カッコ内はファイルサイズです。
■第5回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)12月15日
場所:伊達市役所 特別会議室
議事:伊達市市民ホール(仮称)建設についての提言内容、その他
・伊達市市民ホール(仮称)建設についての提言について議論が交わされました。
資料:次第(PDF:76KB)、会議資料(PDF:108KB)、会議録(PDF:133KB)
■第4回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)11月16日
場所:伊達市役所 特別会議室
議事:伊達市市民ホール(仮称)先進地視察内容(資料1、資料2)、伊達市市民ホール(仮称)建設の目的、必要性、役割、機能についての提言(資料3)、伊達市市民ホール(仮称)建設の立地条件(資料4、資料5)、伊達市市民ホール(仮称)建設に係る波及効果(資料6)、その他
・市民ホールの必要性と役割、機能の提言案、立地条件、波及効果について議論が交わされました。
資料:次第(PDF:85KB)、会議資料(PDF:538KB)、会議録(PDF:200KB)
■第3回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)10月24日
場所:郡山ユラックス熱海 ほか
内容:先進地視察
資料:先進地視察概要(PDF:845KB)
■第2回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)10月11日
場所:伊達市役所 大会議室
議事:伊達市の概況等資料説明、伊達市市民ホール(仮称)のあるべき姿についてのワークショップ、市民アンケート(案)、その他
・市民ホールの必要性と役割、機能について議論が交わされました。
資料:次第(PDF:82KB)、会議資料(PDF:1MB)、会議録(PDF:183KB)
■第1回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)9月29日
場所:伊達市役所 特別会議室
議事:建設検討委員会の位置付け、建設検討委員会の進め方、今後の議論のポイント、市民ホール(仮称)建設に関する自由意見、その他
・3月末までを目処に基本構想を策定する方針が示されました。
・各委員から市民ホール建設に関する意見が発表されました。
資料:次第(PDF:75KB)、会議資料(PDF:279KB)、会議録(PDF:183KB)