2012年2月23日木曜日

映画『孔子の教え』予告


 福島フォーラムで観た。思想家を映像で表現するのはかなりの困難だと感じた。昔観た、旧約聖書の「十戒」は海が裂ける描写が鮮烈だった。今回の映像では、孔子の一行が旅する過程で、海を渡る氷が裂け、大切に持ち運ぶ「論語」が海に沈むのを「顔回」が海に何度も飛び込み、論語を拾い上げる描写が、論語の大切さをシンボライズしていて印象に残った。

 釈迦、キリスト、孔子、その他の後世に多大なる影響を及ぼした思想家は彼の発した言葉と行動が生きる真理を表現するからこそ、命が吹き込まれる。昨晩のNHKクローズアップ現代で放送されたステイブン・スピルバーグ監督「映画を観る観客の想像力とのコラボにより作品が製作される」と話してたが、どの様な素晴らしい作品でも観客の個人々の歴史が異なり、どのように作品を解釈するかは千差万別だ。アクション物等はイメージの共有化は容易だが、今回のような思想家の思想の表現の受け取り方の共有化はかなり困難と感じた。
近日中に「サルトルとボボワール」が放映されるが、楽しみだ。おそらくこの内容は二人の関係(プラトニックラブ)の描写で、二人の思想については表現が簡単だと予測する。

紀元前501年の中国。晋・斉・楚の大国3国に隣接する小国・魯の国政は、権力を握る三桓と呼ばれる3つの分家により混乱していた。君主・定公(ヤオ・ルー)は安定した国を築くため、孔子(チョウ・ユンファ)に大司寇の位を授ける。孔子はその期待に応え、次々と改革を進める。殉葬など古い慣習の撤廃や新しい礼節の制定だけでなく、斉との同盟条約を無血で締結させ、外交でも力を発揮した。孔子の非凡な才能は各国に伝わり、他国の為政者は孔子に関心を寄せる。なかでも衛の君主・霊公の妻で実質的な権力者である絶世の美女・南子(ジョウ・シュン)は孔子を気に入り、自国に引き込もうと画策する。衛や斉から孔子を招聘したいという書簡が次々と届き、孔子の功績は季孫斯(チェン・ジェンビン)ら三桓も認めるところとなる。紀元前498年、孔子は国相代理となる。孔子は国相代理として、三桓の影響力を弱めようとひそかに動き出す。しかし、孔子の弟子・公伯寮の密告により、そのことが三桓に知られてしまう。三桓は定公を抱き込み、孔子を魯から追い出す。孔子は家族を残し旅に出る。しかし、顔回(レン・チュアン)や子路をはじめ多くの弟子たちが合流する。孔子たち一行の諸国巡遊の旅の先には、数々の出会いと別れのドラマが待ち受けていた。

2012年2月21日火曜日



福島県伊達市の子供達は震災、放射能汚染と戦ってます。
一部の小学校は校舎が地震で被害を受け、安全な中学校で授業を受けてます。ある高校は校庭内の仮設校舎で授業を再開し、受験、就職活動を進めてます。

 以前のブログで紹介しましたが、先月末は放射能汚染で、校庭で遊べない、プールに入れない、毎日、マスクをして登校をしてる小学生70数名のいわきハワイアンズ移動教室の引率ボランテイアを行いましたが、特殊学級の生徒さん達からのお礼のお手紙を頂きましたが、
今回、6年生達からのお手紙に返事を出しましたら、校長先生から返事が来ました。その中で素晴らしい下記の一文がありました。ハワイアンズでは同室でいろいろと話しましたが、良い生徒を育てるのは、リーダーのポリシーが大切と感じました。

『本日、明日と、子どもたちは、学力テストです。
例年この時期、1年生から6年生まで実施しています。
我が校の子どもたちは、とてもがんばっていて、
例年、ほとんどの学年で偏差値50以上の結果を出しています。

私の思いとしては、本人の持てる力以上の結果であれば十分と考えています。
偏差値が50以上いかなくても、
本人が努力していることが結果として出ていれば………
このことを一番大事にしたいと考えます。
反対に、50以上の素晴らしい偏差値でも
本人の努力が見られないようであれば
だめだと思います。

マスコミや世間では、どうしても数値だけが一人歩きします。
一人一人の子どもの姿が、平均という表現で消えてしまいます。

私たちは「平均」で生きているわけではないのに。


2012年2月20日月曜日

 

大震災復興支援特別講座に3泊4日で参加した。総勢74名で、私の同室は5名だった。日本国、生かされてる意義、これからの生き方、等を皆と話し合った。多くの新たな出会いが有った。

 本日、ノコギリ演奏者の方から、お葉書を頂いた。会場で名刺交換し、私の伯父もノコギリ演奏を行ってること、伯父のお父様が日本でのノキギリ演奏の先駆者であることを、お話したら、ご存じだった。

 又、講座講師と話したら、私の東京の妹旦那を知ってた。山形の車販売会社社長、講座事務方の千葉の青年、八戸の経営コンサルタント、今回参加最高年齢78歳の方は今は亡き父の尊敬する東京の方の会社に若い頃、勤務経験が有り、いろいろと昔話をした。又、以前の講座で同室だった方は今でも連絡を取ってるが、彼の新たな新設支店の若い女性2名とも知り合い、今後、仙台で再会するだろう。

 仙台の福祉、介護サービス事業を開業してる、社長以下の社員ともいろいろと話した。介護事業に従事する若者が現在、少ない状況だが、今後の高齢化社会では、リタイアした健康な60歳以上の方も介護教育を受け、薄給でも社会貢献出来る意欲が有る方が多いと予測するので、介護参加システムが早急に必要と感じた。3.11の時の施設のお年寄りの避難、施設のお風呂を避難者へ開放、等の素晴らしい話しを伺った。

 
 私の同室の方はご夫妻で参加しており、原発が有る大熊町から家族、近所の方、総勢10名で、3.11発生後、幾他の困難の中で、埼玉へ逃避行し、孫達の登校、進学、中傷、等、多くの大変なお話を伺った。しかし非常に前向きで、「自分達よりもっと大変な方々がいる、自分達は家族、皆、元気だ。生かされてることを大切に頑張って行きたい」との話には感動、感銘、涙した。



 今回の多くの出会いに感謝。出会いを大切(時有る時に連絡を継続する)にして、新たな勇気を交せたら幸せと確信してる。皆様のご多幸を祈念致します。
 


 






2012年2月15日水曜日

 今は亡き妻の母の手作り木目込み雛人形を妻が飾った。
日本伝統文化は美しい!
 先月末、福島駅前で”絆”つながる春イベントで、飯館村、浪江町、他の伝統文化、雛人形、裸祭、他の開催お手伝いをしたが、歴史、伝統を見つめ直し、継続発展させるのが、復興の源泉力と感じた。

2012年2月13日月曜日

SF作家 小松左京


クローズアップ現代「小松左京氏の想像力 (想定外)と言う前に、一人の人間として」2011、10,24

 NHKテレビで昨年観て、頭の片隅に何時も気に成っていた。

 彼はSF作家(科学的な空想にもとづいたフィクションの総称)だが、単なる空想では無く、現場検証を何度も重ね、緻密な科学的計算に基づく想像力で未来を予測した。
今回の3.11大震災は多くの科学者は皆、異口同音に「想定外」と放り出した。
未来を予測するには科学には限界が有り、的確な想像力が未来を切り開くことを、気付かされた。
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テレビ解説
日本沈没は書き上げるまでに9年かかった。膨大な資料を集め、学的な見地からも研究を重ね、それに可能性を追求し、ある意味でのシュミレーション
(未来)を想像したものであるそうです。

それが、神戸の大震災が起きた時に、何もできなかった自らを責め、繰り返さないためにも、未来の人たちに何らかのことを伝えようと、現地を歩き回り、いろいろな人たちへ取材をし、新聞のコラム欄に記したそうです。しかし、倒れないと言われた高速道路に関し、ある高名な学者にも連絡を取ったところ、「思ったより大きい地震が来たから倒れたのだ、我々に責任はない」と取材を断られたそうです。

より良い未来へとつなげていくには、知識プラス人間特有の能力である想像、あらゆる可能性を想像する力が大切であるということでした。また、分かれ分かれになった専門分野を統括することも大切だ、とのことでした。

今回の地震・原発事故時に連発された「想定外」という言葉を取り上げて、学者・専門家である以前に人間としてどうなのか、と、問いかけてました。
  

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1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には[33]13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという[34]


 

何時も感動と勇気を与え続けてる100歳、現役医師。
福島県は多くの避難者が毎日が生きる意味を問いただしてる。
彼らに安易に頑張れの言葉が掛けられない。

医師の言葉に気付かされました。
「強心剤を注射する代わりに、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、
と悔やまれてなりませんでした。」

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「医師としての原点」
       
       
       
            日野原重明(聖路加国際病院理事長、名誉院長)
        
              
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医師としての原点を語る時、外せないのが、
医局に入ったばかりの頃、最初に担当した
結核性腹膜炎の十六歳の少女です。

彼女には父親がおらず、母親が女工として働いていました。
家が貧しくて彼女自身も中学に行かず働いていたのですが、
ある時、結核を患って入院してきたんです。

その病室は八人部屋で、日曜になると
皆の家族や友人が差し入れを持って見舞いにくる。

でも彼女を訪ねてくる人はほとんどいない。
母親は日曜も工場で働いていたから、
見舞いにもなかなか来られなかったんです。

私は日曜になると教会の朝の礼拝に出席するため、
同僚に彼女のことを頼んでいました。

ところがある時、その同僚から


「日野原先生は、日曜日は
いつも病院に来られないから寂しい」


と彼女が言っていたと聞かされましてね。
以来私は朝教会に行く前に、病室へ顔を出し、
それから礼拝に出るようにしたんです。
これはその後の私の医師としての習慣にもなりました。


ところが当時は結核の治療法がなかったために、
どんどん容態が悪くなっていってね。

非常に心配していたんですが、ある朝様子を見に行くと、


「先生、私は死ぬような気がします……」


と言うんです。私は


「午後にはお母さんが来られる予定だから、頑張りなさい」


と言いました。

すると彼女はしばらく目を閉じて、
また目を開いて言葉を続けました。


「お母さんはもう間に合わないと思いますから……、
私がどんなにお母さんに感謝していたかを、
日野原先生の口から伝えてください」。


そうして手を合わせた彼女に、私は


「バカなことを言うんじゃない。死ぬなんて考えないで!
もうすぐお母さんが見えるから、しっかりしなさい」


と言って、その言葉を否定したんです。

ところが見る見るうちに顔が真っ青になっていったので、
私は看護師を呼んで「強心剤を打って延命しよう」と言い、
弱っている彼女に強心剤をジャンジャン打った。

そして「頑張れっ、頑張れっ!」と大声で叫び続けた。

彼女はまもなく茶褐色の胆汁を吐いて、
二つ三つ大きく息をしてから無呼吸になりました。

私は大急ぎで彼女の痩せた胸の上に聴診器を当てましたが、
もう二度とその心音を捉えることはできませんでした。

私は彼女の死体を前にして、どうしてあの時


「安心して成仏しなさい。
お母さんには、私があなたの気持ちを
ちゃんと伝えてあげるから」



と言ってあげられなかったのだろう。
強心剤を注射する代わりに、
どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、
と悔やまれてなりませんでした。

私は静かに死んでいこうとする彼女に、
最後の最後まで鞭を打ってしまったわけです。


この時に、医師というのは
ただ患者さんの命を助けるのじゃない。

死にゆく人たちの心を支え、死を受け入れるための
援助をしなければならないのだと思いました。

その強い自責の念が、
後にターミナルケア(終末の患者へのケア)や
ホスピスに大きな関心と努力を払い、
人々が安心して天国や浄土に行くにはどうしたらよいかを考え、
そういう施設をつくる行為へと繋がっていったんですね。

2012年2月12日日曜日

『聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―』予告編

山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)は、新潟県長岡藩出身の大日本帝国海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将正三位大勲位功一級

ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで、太平洋戦争大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃ミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから、海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。

 
 先日、福島フォーラムで観た。やはり、今、見直されてる武士道だ。
ストーリー全体の山本が如何に戦争に反対したが、止む無く戦争突入したかの表現が今一だった。

印象に残った台詞
 ・部下の質問「長岡藩は徳川家存続の為に、義を持って全うする、現在は徳川家は無い、何を義とするか?」山本の答えは「おまえは両親が大切だろう、この両親を安心させる、日本国の安泰を義を持ってつくす。

 ・真珠湾攻撃の時、山本は部下に、「戦線布告をしてから攻撃すべき、武士が闇打ちを行う時も、先ず、枕を蹴って、敵を目覚めさせてから、攻撃するものだ」
しかし、実際は手違いで、攻撃後、2時間後に戦線布告された。


     面白い文章を見つけました。小さな商店が大型量販店の進出に対抗して、利益を確保して発展した実例だ。方策は大型量販店が出来ない「高売り」、「きめの細かいサービス」。客の困ってることに直ぐに対応、対応のしかけのアイデの実践に有った。当たり前のことを実行出来るかは、強い信念、ポリシーの確立

1、現状把握

 1)大型量販店が六店の進出、大型店の粗利率の平均は約十五%、

地元の電気屋が約二十五%程度

 2)売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれる。

 3)この頃当店は約三万四千世帯のお客様。高齢化も進んでいました。

2、対応への目標の設定

 1)十年間で粗利率を十%上げ、約二十五%から三十五%にする。

3、方策

    1)客層の絞り込み。商圏をなるべく狭くする。ターゲットを五十代からの

富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小する。
2)絞り込んだ一万二千世帯のお客様には、他店では真似できないような

サービスをする。

4、具体策の実施

 1)月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。これによって、お客様と

        の深い人間関係ができ、商品が少々高くても購入してくださる方が増える。

           2)訪問の際にお聞きするのは、お客様が生活される上でのちょっとしお
        困り事。

           3)本業とは無関係なことも徹底してやらせていただくようにしたのです。

           4)会社のモットー

「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」

「お客様のかゆいところに手が届くサービス」

「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」

5、ピンチをチャンスに

  いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、
本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、
チャンスが見つかることも少なくないはずです。現状を打破する発想は、
ピンチの中にこそ生まれる

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「小さな電気屋の明るい経営術」
   山口勉(でんかのヤマグチ社長)
地元に大型量販店がくる――。
こんな話が私の耳に飛び込んできたのは、
町の電気屋「でんかのヤマグチ」が東京都町田市で、
創業三十年を過ぎた平成八年でした。
「噂で終わってくれ」
と願ったのも束の間、近隣にあっという間に
六店もの大型量販店ができたのです。
三十年以上商売をしてきた経験から、
売り上げが年に三十%近くも落ちることが見込まれ、
事実、三、四年の間に借金は二億円以上にまで膨れ上がっていきました。
まさに、会社が存続するか否かの瀬戸際です。
生き残るためにはどうするか。
悩みに悩んで私が出した結論は十年間で粗利率を十%上げ、
三十五%にすることでした。
当時大型量販店の粗利率の平均は約十五%で、
地元の電気屋が約二十五%程度でした。
周りからは、
「そんなことできっこない」
という声が
大多数でしたが、それ以外に
生き残りの術は浮かばなかったのです。
私がまず決めたのは、大型量販店のように
商品を安売りするのではなく、
逆に「高売り」することでした。
この頃当店は約三万四千世帯のお客様に
ご利用いただいていましたが、
これだけの数では本当の意味で
行き届いたサービスはできません。
そのため商圏をなるべく狭くし、
ターゲットを五十代からの
富裕な高齢者層に絞り込んで三分の一にまで縮小しました。
そして一万二千世帯のお客様には
他店では真似できないようなサービスを
とことんしようと決めたのです。
顧客数を三分の一に減らした分、
月一度行っていた訪問営業を月三回に増やす。
これによって、お客様との深い人間関係ができ、
商品が少々高くても購入してくださる方が
増えるだろうと考えたのです。
訪問の際にお聞きするのは、
お客様が生活される上での
ちょっとしたお困り事についてでした。
ひと昔前の日本では何か困り事があると
隣近所で助け合い、支え合うという
相互扶助の精神が息づいていました。
私が着目したのはこの部分です。
家電製品のデジタル化が進む一方で、
地元民の高齢化もどんどん進んでいました。
当然、家電の操作が思うようにできない方も多くなりますが、
お客様のお困り事はそれだけに限りません。
ご高齢、体の不自由な方は買い物に行くのも大変です。
そのため、当店では本業とは無関係なことも
徹底してやらせていただくようにしたのです。

お客様の留守中には植木の水やりをしたり、
ポストの手紙や新聞を数日保管したり、
大雨では代わりに買い物にも出掛けたり。
これらを我われは「裏サービス」と呼び、
お代は一切いただきません。
会社のモットーも
「お客様に呼ばれたらすぐにトンデ行く」
「お客様のかゆいところに手が届くサービス」
「たった一個の電球を取り替えるだけに走る」

などに定め、
「どんな些細なことでも言ってくださいね」
とお声がけをしながら十数年、社員パート合わせて
五十名で徹底して取り組んできました。
ただしお客様との信頼関係は
一朝一夕にできるものではありません。
私が粗利率の目標達成期間を一年や二年でなく、
十年としたのもそのためです。
悪い評判に比べ、よい評判が広がるには
かなりの時間がかかります。
しかし、この姿勢を愚直に、ひたむきに
貫いていったことで、結果的に
八年間で粗利率三十五%を達成することができました。
その目標達成のため、とにかく無我夢中で
取り組んできた私ですが、
この方向でいけるかなとなんとか思えるようになったのは、
粗利率を十%上げる方針に転換して
三、四年が経過してからのことでした。
経営者として小さな電気屋が六店舗もの
大型量販店との商売競争に勝つために
いったん決断はしたものの、
本当にそんな粗利率をクリアできるのか、
お客様は本当に買ってくださるだろうか、と悩み続けました。
「この判断は正しい」
「いや、ダメだ。うまくいかない」
という思いが年中、頭の中で争いをしているような状態……。
しかし、いつも最後には
「この道が正しいんだ」
という考えが勝ちを占めるよう心掛けました。
肝心なのは一度この道を行くと決めたなら、
途中で迷わないことではないでしょうか。
思うように結果が出ないと、
あの道もこの道もよさそうだと目移りしますが、
そのたびに

「成功するまでやってみよう」と自分に言い聞かせる。
急ぐことはなく、ゆっくりでいいから
とにかく一歩一歩を着実に歩んでいくことが大事だと思います。
会社の存続が危ぶまれた大型量販店の出現から十四年。
しかしこの間、赤字決算が一回もないことには
我ながら驚きます。
さらに、一生返せないと思っていた
二億円以上の借金を三年前に完済することができました。
人間はとことんまで追い詰められ、
地べたを這いずり回るような思いで
必死になって取り組むことで
活路が開けるものなのかもしれません。
もしあの時、量販店がこの町田に来ていなければ、
今日のような高売りをしているとは考えにくく、
そう考えると逆にゾッと寒気すらします。
現在の日本も不況が続き、
出口の見えないような状況が続いています。
しかしデメリットばかりに目を向けて
内向き思考になってしまっては、
せっかく転がっているチャンスも逸してしまいます。
いまある常識やこれまでよしとされてきたことも、
本当にこれでいいのか、と根本から疑ってみることで、
チャンスが見つかることも少なくないはずです。現状を打破する発想は、
ピンチの中にこそ生まれるのだと思います。

2012年2月11日土曜日

facebookで菅野友美子さんの投稿から思い出されました。ありがとうございます。

病床で同じ病院に入院する、尊敬する岩谷時子さんへボイスレコードでの毎日の交換メッセージの本田美奈子のアメージンググレイスを思い出しました。



2012年2月10日金曜日

今日、永久保存にしたい手紙が届いた。感激で胸が熱くなった。
先月に3泊4日でいわきハワイアンズへ小学生の引率ボランテイアで、一緒に生活した子供達からの礼状だった。

 私のお手伝いした子供達は特別支援学級の生徒で、心身ともに不自由な子供達で、話すのも、文字を書くのも、行動も精一杯、頑張らなけば、思うように表現ができない。その子供達のたどたどしい直筆の文章で、一緒にプール、温泉、バイキン
グ、工作等、とても楽しかったの感謝の文章で、一人々の顔が思い出され、又、会いたくなった。

 子供達の通う学校は放射能濃度が高く、マスクをし、外で遊べない状況が続いてる。大人の責任を深く感じ、少しでも、子供達が元気を取り戻せるよう、今後も、いろいろと、行動して行きたいと、強く感じた。

 お手紙、本当にありがとう!


2012年2月5日日曜日

      


NHKアーカイブス「生涯青春“カーネーション”小篠綾子の人生」

 今日、NHKで観て感動した。朝連ドラマ「カーネンション」を毎日、笑、涙で、楽しみに観てる。74歳で新たなブランド作り(高齢者向けのファッション)に挑戦、生涯青春を全うした。93歳で逝去。

 若さの秘訣は、いろいろな年代層の多くのグループを作り、彼女の魅力で集まる仲間との会話からヒントを貰い、ファッションで表現する。好奇心が旺盛で、常に回りの幸せを考え、行動し、回りからの笑顔で幸せを実感してた。

 有名な3人の娘達は母親の背中を観て、自立、感性を磨いた。

小篠 綾子(こしの あやこ、1913年(大正2年)6月15日 - 2006年(平成18年)3月26日)は、日本ファッションデザイナーである。同じくファッションデザイナーとなったコシノ三姉妹(コシノヒロココシノジュンココシノミチコ)の母親としても知られる。
妻と福島ワーナーマイカルで観た。テレビで前作が放映され、感動し、昔、懐かしく、東京下町で育った私の子供時代の風景がそこには有った。都電、トロリーバス、隅田川、紙芝居、長屋、駄菓子屋、あこがれのテレビ、力道山、若乃花、月光仮面、ゴム動力の手作り竹飛行機、オリンピック、皇太子ご成婚、ケネデイ暗殺・・・。「幸せとは何だろう?」と、医者役の山口百恵の旦那が呟いていた。


2012年2月4日土曜日

今朝のNHKで初音ミク、由紀さおり の爆発的フィーバーの共通点、力強い日本を如何に取り戻し、
発展させるかの特集があった。日本伝来の文化、伝統技術、日本語は世界に通用し、なお且つ、世界を魅了する宝が多く潜んでいることを再認識した。






2012年2月3日金曜日

 伊達市の一般公募があり、小論文を応募し、採用通知があり、参加した。一般応募採用は私一人で、他は各団体の長の集まりだった。先日、第6回で最終回となり、基本構想がまとまった。
各委員のそれぞれの団体の思惑が有り、多くの意見がだされた。私は全くフリーの立場で、忌憚なく発言させて頂いた。放射能等の暗い話題の中で、明日の伊達市を象徴する市民ホール建設の実現を切に祈念してます。

伊達市市民ホール(仮称)建設計画(策定中)


 現在、価値観が多様化し、生活の質的向上や魅力のある街づくりへの関心が高まる中、伊達市の魅力を発信していく核となる施設の建設が重要な課題となっています。
 また、全国大会規模の各種催しや消防団員全員が集まれるような施設が現在伊達市にはないため、伊達市民が一堂に会せる施設として、伊達市市民ホール(仮称)建設を検討しております。
 伊達市市民ホール(仮称)建設検討を進めるために、平成23年9月に伊達市市民ホール(仮称)建設検討委員会を組織して、検討を進めています。
 平成24年3月末頃までに、約7回の検討委員会を開催して「基本構想」をとりまとめる予定です。



伊達市市民ホール(仮称)検討委員会

検討委員会の様子  
 伊達市市民ホール(仮称)建設に関して、専門的な見地からの検討を行い、 広く市民等から意見、提言を求め、計画の策定に関し必要な審議を行うため、 伊達市市民ホール(仮称)建設検討委員会を設置しました。
 委員会は、次の事項について調査、検討および協議します。
(1) 市民ホールの設置に関すること
(2) 基本構想、基本計画についての意見及び提言、答申に関すること
(3) 基本構想、基本計画についての審議に関すること
(4) 実施設計、管理運営計画等に関すること
(5) その他委員長が必要と認める事項

以下は各検討委員会の会議資料および会議録です。カッコ内はファイルサイズです。

第5回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)12月15日
場所:伊達市役所 特別会議室
議事:伊達市市民ホール(仮称)建設についての提言内容、その他
・伊達市市民ホール(仮称)建設についての提言について議論が交わされました。
資料:次第(PDF:76KB)会議資料(PDF:108KB)会議録(PDF:133KB)

第4回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)11月16日
場所:伊達市役所 特別会議室
議事:伊達市市民ホール(仮称)先進地視察内容(資料1、資料2)、伊達市市民ホール(仮称)建設の目的、必要性、役割、機能についての提言(資料3)、伊達市市民ホール(仮称)建設の立地条件(資料4、資料5)、伊達市市民ホール(仮称)建設に係る波及効果(資料6)、その他
・市民ホールの必要性と役割、機能の提言案、立地条件、波及効果について議論が交わされました。
資料:次第(PDF:85KB)会議資料(PDF:538KB)会議録(PDF:200KB)

第3回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)10月24日
場所:郡山ユラックス熱海 ほか
内容:先進地視察
資料:先進地視察概要(PDF:845KB)

第2回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)10月11日
場所:伊達市役所 大会議室
議事:伊達市の概況等資料説明、伊達市市民ホール(仮称)のあるべき姿についてのワークショップ、市民アンケート(案)、その他
・市民ホールの必要性と役割、機能について議論が交わされました。
資料:次第(PDF:82KB)会議資料(PDF:1MB)会議録(PDF:183KB)

第1回市民ホール(仮称)建設検討委員会月日:2011年(平成23年)9月29日
場所:伊達市役所 特別会議室
議事:建設検討委員会の位置付け、建設検討委員会の進め方、今後の議論のポイント、市民ホール(仮称)建設に関する自由意見、その他
・3月末までを目処に基本構想を策定する方針が示されました。
・各委員から市民ホール建設に関する意見が発表されました。
資料:次第(PDF:75KB)会議資料(PDF:279KB)会議録(PDF:183KB)

2012年2月2日木曜日

一月二九日 福島駅前 ”絆”つながる春イベント
東京からコスキンパレードに参加した、笑顔の美しい仲好













一月二九日 「”絆”つながる福島の春」 一万人の来場者で盛大に開催された

 震災・原発事故によって開催をあきらめていた伝統芸能を福島市内で復活させることで、新たな希望を持って、地域のつながりを再認識し、新しい季節を迎えられるようなイベントとして企画されました。
当日は、「ふくしま言の葉めぐり」「ふくしまひなめぐり」「ふくしま祭りめぐり」「絆の架け橋」の4つの企画がそれぞれの会場で開か れました。

 紅いジャンバーを着た、避難者の多くもイベント準備に参加し、開会した。当日は雪が降り、浪江町の裸祭りは一層、潔い素晴らしいものとなった。
東京からコスキンに参加したチャーミングな女の子友達、皆、それぞれ喜びの美しい笑顔で、復興を確信した。