2011年5月31日火曜日

第17回 「絵と戯れる会」 作品発表会
平成23年5月26日~5月31日 
福島駅近くのパセオ通りの福信ギャラリー
発表者10名 作品33点 
油彩、水彩、アクリル、水墨、クロッキー、版画、陶器、卵殻、陶片オブジェ、パステル、切り絵














 今日で「絵と戯れる会」発表会の一週間開催の幕を閉めました。
今回の来場者は昨年に比べ半減の180名弱でした。福島が元気を取り戻すには時間が掛りそうだが、皆で明るく頑張って行きたい。

 今日も友人が多く来場した。会社OB先輩は原発が心配なので、子供達が居る東京へ移住することを決断したそうだ。

 会社の後輩は独立して会社経営してるが、今朝、県庁で災害復興への取り組みのプレゼンテンションしてから会場に社員の方と来て頂た。

 近くの教育センターの友人も来て頂たが、彼は陸前高田等へ関東、関西地区からの救援物資を毎日のように運搬していた。今後は避難者への心のケアーボランテイア活動が重要に成ると言ってた。
 
 霊山のNPO法人里山学校の校長先生、霊山の友人が一緒に来て頂いた。共に昼食し、歓談した。校長先生の娘さんが、会場近くの病院で出産されたそうで、お孫さん出産祝いの赤飯と、学校の運営の自然農園で採れた真っ赤なトマトを頂いた。霊山の友人は閉会後の絵画搬出作業を手伝って頂いた。

 今回の発表会は台風、風評、余震の中で開催されたが、多くの友人の来客の笑顔で幸せな時間を持つことができ、感謝で有る。震災の復旧、復興は長期化が予測されるので、評論家に陥り易い自分を戒めながら、ボランテイア活動の実践を継続する思いだ。


 来年の発表会に向け、余裕を持った作品作りに早期に取り組みたいと思う。今回のごとく、明日は誰も予測できない。毎日を誠実に一生懸命、悔いの無い生活を心がけたい。

 
 






2011年5月30日月曜日


今朝の福島民報の朝刊に「絵と戯れる会」が掲載された。
今日は台風の影響で大雨、強風で来客が極端に少なかった。
今回の会場は福島駅から中心部へ歩いて10分程の昔は飲み屋が多く有った洒落た通りで、昔の”すずらん通り”を改め”パセオ通りに有る。
FMポコスタジオもあり、小さな個性あるお店が並んでいる。

 この場所は昔は良く、福島へ来たお客さんを案内して、食事、クラブで楽しんだ。飯坂温泉の宿泊客は市内のこの場所にタクシーを飛ばして来たものだ。福島競馬場が開催されると、騎手、馬主、調教師、競馬を楽しむ遠方からの客も遅くまでクラブで騒いでいた。
 
ジャズ喫茶、ダンススタジオ、等、夜のネオンが眩しく、帰宅タクシーがなかなか拾えない程の活気が有ったが、バブルが弾け、リーマンショック後、かつての面影が今は無い。

 
 今回の大震災、原発、風評等、福島県の復興はどのようにすれば良いか、直ぐには思い当たらない。時間は刻々と流れており、とりあえず、一歩ずつ、前に足を運ぶしかない。このような世界に”福島”の2文字が印象付けられ、かつてのどのような宣伝アピールでは獲得出来ない知名度の”福島”を、今後の大きな復興飛躍のルートに乗る方法を、多くの方からの知恵を募りたい。

2011年5月29日日曜日

想定外は口実、想定出来た。

 想定とは?時間的スパーンと事象の規模をどのように設定するか?により、想定外、内に振れることを下記の文章「時間のものさし」で気付かされた。

今回の大震災は1000年前の事実をどのように認識して、時間、規模、発生確率をどのように設定するかの思考能力の問題であった。自然現象は地球規模、宇宙規模で思考し、天の摂理(自然法則)を受入れることの重要性を再認識させられた。

「時間のものさし」

林雄二郎(日本フィランソロピー協会顧問・トヨタ財団元専務理事)
 時間を測るものさしは無数にある。
 そのものさしを使って物事を考えることが大切だ――
 そのことを教えてくれたのは、 文化人類学者の梅棹忠夫君だった。
 彼と初めて出会ったのは、大阪万博の頃だったろうか。
 昭和十七年、総理府の技官になった私は、
 戦後、経済安定本部や経済企画庁で
 日本経済の復興のため力を尽くしていた。 終戦直後、片山内閣から経済復興計画の策定
 という第一課題を与えられた我々は、
 三か年計画や五か年計画を立て、実行に当たっていたのである。

 昭和四十年、経済企画庁経済研究所の所長時代に、
 二十年後の社会を予見して書いた私の文章は、
 「林リポート」と呼ばれ、 日本社会を発展させるためのガイドラインとして
 扱っていただいた。 同庁では、二か年計画を中期計画、
 五か年計画を長期計画と呼んだが、
 私のリポートは「超長期計画」といわれるものだった。 その後、長年にわたる役所勤めに終止符を打った私は、
 五十一歳で東京工業大学の教授となった。
 その頃梅棹君との出会いの機会があり、
 私は目を開かされるような思いをしたのである。

 ある時のことだった。
 梅棹君と議論をしていると、彼が
 「こういうことをいまのうちにちゃんと考えておかないと、
  人類はまもなく滅びるな」
 と深刻そうな顔で言う。
 これは大変なことだと思い、
 「それは何年後のことだ?」
 と尋ねると、梅棹君は
 「そうだなぁ、五千万年ももてばいいほうだ」 と言うのである。

 それまで経済企画庁にいて、三年先や五年先を見越した
 計画を策定してきた私には、気が遠くなるような話だった。
 ところが当の本人は、冗談で言っているのでも何でもなく、
 それが本当に心配でならないといった表情をしているのである。
 その時に私は、あぁ、この人の持っている時間のものさしは、
 我々とは違うのだ。時間のものさしは一つではなく、
 無数にあるのだと感じたのである。
そうやって長い時間のものさしで
 物事を考えるように仕付けている人には、
 千年、二千年というものさしで世の中の変化を
 見ていくことができるのだろう。
 梅棹君にとっては、五千万年後が「まもなく」なのだ。 我々には雲をつかむような話でも、
 彼の目には人類が滅んでいく姿がイメージとして
 はっきり描けているのではないかと感じた。

 こちらも同じ時間のものさしで
 一緒に考えなければ話ができなくなると考えた私は、
 一所懸命心の訓練をした。
 
 すると彼の言葉が決して世迷言などではなく、
 だんだんと真実味をもって迫ってくるようになったのである。
 五千万年後の世界は私にとって、空想上のものではなくなった。
 その考え方は昭和四十六年、私が未来学を主唱し、
 日本未来学会を旗揚げする際にも大いに役立った。 「未来学」といえば「年後の△△」や 「二十一世紀の××」はどうなるかといった類のことを
 考えがちだが、私の考え方はそうではなかった。
 未来を考えることは現在を考えること。
 未来学とは現在学である――
 つまり、身の回りにある変化の兆しを
 いかに現在の中に見つけるか。
 その変化の兆候のことを私は「未来からの呼びかけ」と名づけ、
 その声に応えていくことが未来研究であるとした。

 学会の設立からまもなく、豊田英二氏がトヨタ財団を設立し、
 私はその専務理事を任された。 財団の仕事は様々な団体に資金の援助や助成を
 行ったりするものだが、いずれも皆、
 将来のために行う事業である。
 
 その将来とは、十年先や百年先のことであるのだが、
 私は時間のものさしを数多く持っていたおかげで、
 伸縮自在に物事を考えることができた。
 すべて梅棹君のおかげである。
 
 梅棹君は何十年も前から、
 南極大陸の氷が溶けて地球の温暖化が進むことを予見し、
 仲間たちと盛んに議論をしていた。
 
 当時の私にはあまりピンとこなかったが、
 現にいま世界ではそうした現象が起こっている。
 そんな話は自分たちには関係ない、
 まだまだ先のことだろうと我々が見過ごしてきたことの ツケが回ってきたとも言えるだろう。

 このままの状態が続けば、梅棹君の言うとおり、
 人類の滅亡は避けられないだろう。
 何億年か後、まったく別の生物が地球上に現れるとすれば、
 彼らは人類の化石を発掘していろいろな調査をするかもしれない。
 この人類という生物は、
 未曾有の「文明」というものをつくり上げ、
 驚くべき発達をさせた。
 けれどもその文明を発達させすぎた結果、
 その文明によって自分たちを滅ぼしてしまったのだ。
 他の生物に比べて抜きん出て利口だと感じる部分があるかと思えば、
 他の生物より抜きん出てバカだったとも言える。
 利口なのかバカなのかまったくもって分からない、
 しかもそれを少しも自覚できなかったという、
 いよいよもって不思議な生物、それが人類、
 とでも説明がなされるだろうか。


 人間は過ちばかりを繰り返す存在だが、
 物事を一所懸命に考えることができる。
 だからできるだけ長い時間のものさしを使って、
 未来からの呼びかけに耳を澄ませてほしい。
 それが今年九十二歳を迎えた私からの切なる願いである。


今朝の朝刊の福島民友新聞に先日の取材記事が「感性光る技法の絵画」のタイトルで掲載された。
 

 






今日も多くの旧友が来場頂いた。30年振りの再会、会社OB先輩、会員家族、私の妻も皆と一緒に昼食を共にした。

 
今回、ある会員は会社の震災復旧
の仕事が忙しく、又、体調不良の方、他の絵画展出品と重なる方、等、都合の付かない方が多く有ったが、元気復興祈願の絵画展を開催出来たのは幸せで有る。

 



 各自の3月11日の震災時のドラマを語り合った。
福島は最終的に原発事故の早期終息を願うばかりだ。 

 昨年の「絵と戯れる会」会期中に逝去された会員の遺作の前でご遺族親子が絵を見ながらご友人に思い出話しを懐かしく、楽しそうに話されてた様子を拝見して、今後も継続して毎年、遺作を展示したいとご遺族にお話したら、大変に喜ばれた。

 










  毎年のこの「絵と戯れる会」が皆様の生きる喜びの場と成れば、
本当に嬉しく、皆様に感謝で有る。







2011年5月28日土曜日



 








 今日は夕方、会食が有るので、阿武隈急行で福島駅へ行った。被災後の臨時ダイヤで運行されていた。福島駅から徒歩で10分程で会場に着いた。
 
今日も多くの旧友が来場された。日中文化交流会の大先輩、彼の元、同僚の作品を観に来た。会社OB,夫妻、他の方々の来場を頂いた。

 東京から会員が駆け付けた。東北新幹線は、やはり震災影響で、何時もより30分程の時間が掛り、ゆっくり安全運転だったそうだ。彼の開発した防水携帯電話は今回の津浪被災でも問題が無く、被災地から感謝されたそうだ。彼の会社は1週間の被災地へのボランテイア休暇が取れるそうだ。夕方は彼を囲み、何時ものドイツ料理店でビールを酌み交わし、楽しい時を過ごした。
 今日は昨日とは異なる新聞社の福島民報新聞社の女性記者が取材に来た。明後日の朝刊に掲載予定。

 私のクロッキー勉強会の駅近くの画廊は今回の震災で来客が激減して、家賃が高いので、今回の発表会の展示会場の直ぐ近くへ移転したことを偶然に知り、訪ねてオーナーと歓談した。
彼の家自身も被災して、一時、避難者生活をしたそうだ。
画廊の展示予約が多くキャンセルされたそうだ。 

 芸術関係ビジネスの復興は最後に回され、相当に時間が掛りそうで、これから経営、生活が大変で不安と話していた。

 今回の「絵と戯れる会」の発表会の開催は、このような時期で、随分と悩んだが、”継続は力なり” を強く意識して開催したが、多くの旧友の来場で元気付けられ、又、展示作品で、皆様に少しでも元気を与える話題提供で有ったと感じている。





2011年5月27日金曜日

   今日も「絵と戯れる会」発表会に多くの旧友が観に来て頂いた。
仙台からの友人、会社OB仲間、ご夫妻等で、昔話に華が咲いた。
 
 昨年の会期中に逝去された友人の娘さんが、お友達にお父様の思い出を遺作の前で懐かしげに話していた。

 昨年同様に福島民友新聞社の女性記者が取材に来た。
会の内容を説明した。近日中に掲載予定。









 

父の遺作の小熊のデッサンは女性客に好評価だった。「絵と戯れる会」は平成元年に発足したが、私家族は福島、父は千葉に在住しており、父を時々、福島に絵の指導で招待して、スケッチ旅行等で楽しんだ。父も福島に来るのが楽しみで、温泉等へ案内して子供達と過ごした。

 
今朝の福島民報新聞に掲載されていた画家のご夫妻も訪れ、各絵の評価を貰った。

「絵と戯れる会」を通して、多くの良き仲間と交流が出来、感謝してる。今後とも毎年の開催継続に努力して行きたい。