2011年7月27日水曜日

 先日、ボランテイアお手伝いを了承してた、少年教室の「夏の裏磐梯を探検しよう」の役割詳細が郵便で届いた。小学生の夏休みを利用したイベントだ。今、私の住む町は放射線汚染で、子供達は屋外でのびのびと遊べない状況で、ストレスが溜まってる。

 昨日は「ガンバッペ福島 絆」講演会の開催準備で町内の高校校長を訪問して、生徒達の出演、作品発表、他で元気の出る絆イベントの相談をした。
素晴らしい校長だった。校舎が震災で使用出来なくなり、体育館等で授業してたが、クーラーも無く、猛暑の中の授業で大変だったそうだが、校長に案内頂き、出来たばかりの学校内の仮設校舎に生徒達は移動し、冷房の有る快適環境で授業を開始し、生徒達は明るく大きな声で、我々に挨拶していた。頼もしい、清々しい風が吹き抜けた。

 何をすれば良いか、悩む浪費する時間が有れば、行動せよ!
面白い文章を下記、見つけました。


「兄・小林秀雄から学んだこと」
       

高見澤潤子(劇作家)
        
子どものころから兄・小林秀雄は、
私には尊敬すべき存在だった。

私は兄から多くのことを教えられた。

しかし、私があんまり知らないことが多すぎて
恥ずかしいといったとき、


「何ももの知りにならなくてもいい」


といってくれて、


「学者はknowledgeだけあって、wisdomがないから駄目だ」


といったことがある。

人間は生きていくためにはもちろん
学問、知識(knowledge)は必要である。

しかし、物事をよく判断し、よく処理する心の動き、
賢さというようなもの、生きていく知恵(wisdom)は、
それ以上に大切であることを、兄はいうのである。

兄は理論よりも行動を重視した。
何かせずにはいられないという気持ちは、
愛情とか尊敬からおこるものである。


頭で考えているだけでは、
そういう気持ちにはなかなかなれない。

愛情をもって対象物を本当に理解しなければ、
実行することはできない。


知ることは行うことだ、と兄はいっていたし、

「実行という行為には、
 いつでも理論より豊かな何かが含まれている。
現実を重んじる人というよりは、
現実性を敬う心がある」



というようなこともいっていた。


私たちはあまりにも観念的になり、抽象的になり
理論的になっている。

理屈ばかりいって、実行しない者は多い。
現実を大切にしないからである。

実行するのは難しいことなのだが、
具体的にものをいうよりも、抽象的にいった方が
深みがあるように思っているからである。

しかし目の前に現れている現実、
具体のほうが大事なのである。

私が自分の結婚問題について、
手紙で兄に相談したとき、兄は長い返事をくれた。

その中にこういう言葉があった。


「人間が人間の真のよさだとか悪さだとか
 わかる迄には大変な苦労が要るものだ。
 
 人間を眺める時、その人間の頭にある思想を
 決して見てはならぬ。それは思想だ。人間じゃない。

 その中によさも悪さもあるものでない。
 大体、アリストテレスの言ったように、
 人生の目的は決してある独立した
 観念の裡(うち)にはないものだ。

 人間の幸不幸を定める生活様式の裡にあるのである、
 いい生活様式を得れば人間はそれでいい」



兄は何も知らない私に人間の見方と、
人生の幸福というものを教えてくれた。

人間は頭より情緒、心の優しさが大切で、
人間をみるというのは、実生活の具体的なものを、
しっかりみることである。


0 件のコメント:

コメントを投稿