2011年8月14日日曜日

正論特別号CD版 -昭和史原点の目撃者 迫水久常の証言-

明日は終戦記念日

現在の日本が有るのは天皇のご聖断だった。
先輩からお借りしたCD
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正論特別号CD版 -昭和史原点の目撃者 迫水久常の証言-
1.終戦詔書(玉音放送)

2.終戦詔書(奉読)

3.内閣告諭(奉読)

4.終戦御前会議(迫水久常証言)

5.阿南陸軍大臣の心境(迫水久常証言)

6.二・二六事件(迫水久常証言)

迫水 久常迫水久常
1902〜77年。東京生まれ。東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入る。その後、二・二六事件当時の岡田内閣の首相秘書官、日本の終戦を決めた鈴木内閣の内閣書記官長を務める。戦後は公職追放のあと衆議院議員、転じて参議院議員(全国区)になり、池田内閣の経済企画庁長官、郵政大臣を歴任した。

戦後日本の出発点がここに

平成の世も23年となり、「昭和は遠くなりにけり」との感がますます強くなってきました。気がかりなのは日本人が急速に国家意識を失い始めていることです。父祖たちが血と汗と涙を流してこの国を守り抜き、次の世代に手渡してきたことを私たちは忘却しているように思えてなりません。この度、二・二六事件の只中で機転をきかせて、岳父である岡田啓介首相を無事に首相官邸から救出し、さらには終戦を決めた御前会議に内閣書記官長として陪席 し、その一部始終を目撃した迫水久常氏の証言をCDに収録。当事者以外には語りえない貴重な証言を、この機会にひとりでも多くの日本人に聞いてもらいたいと考えております。



動画 終戦御前会議 

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14440260


大東亜戦争末期、
天皇陛下が御聖断を下さなかったら、我が国はどうなっていたでしょうか?

(写真:東京)
イメージ 1

8月6日、広島に人類史上初めて原爆が投下され、
9日には長崎に2発目の原爆が投下されました。
さらに9日には日ソ不可侵条約を一方的に破ってソ連軍が満州や樺太に侵入してきました。
また、沖縄を既に収めていた連合国軍は10月にも南九州に上陸する計画でした。
そして11月には関東地方に上陸をする計画も立てられていました。
さらにソ連軍は北海道に侵攻し占領していたでしょう・・・。

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このような中、軍部は徹底抗戦を主張しました。
天皇陛下がここで終戦を決断しなければ軍部は本土決戦に臨んだでしょう。
国民は一億玉砕という軍部とマスコミの扇動に操られていました。
その戦いはさらに数百万の犠牲者を出したかもしれません。
日本は破壊され、連合国軍によって分割占領されて、
日本自体がなくなっていたかもしれません。

・・・・・・

昭和20年8月9日、御前会議。
会議にはいろんな意見が出され、ついに翌8月10日の午前2時。
最後に鈴木貫太郎 総理大臣が天皇陛下に
「陛下の思召しをうかがわせて下さいませ」とお願い申し上げました。


イメージ 3

陛下は
「ほかに別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。

反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変りはない。
私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、
これ以上戦争を続けることは無理だと考える。

国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、
私はこの回答文の文意を通じて先方は相当好意を持っているものと解釈する。
先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが私はそう疑いたくない。
要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、
この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。


さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことは
まことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。
しかし自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい。
この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、
万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてはじつに忍び難い。
祖宗の霊にお応えできない。


和平の手段によるとしても、素より先方のやり方に
全幅の信頼をおき難いのは当然であるが、
日本がまったく無くなるという結果にくらべて、
少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。


私は明治大帝が涙をのんで思いきられたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、
この際堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。
今日まで戦場に在って陣歿し或は殉職して悲命に斃れた者、
またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。
また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては
私の深く心配する所である。
この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。
国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。


一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、
突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう。
陸海軍将兵はさらに動揺も大きいであろう。
この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、
どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣はともに努力し、
よく治まるようにして貰いたい。

必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。
この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。
以上は私の考えである。」


このような天皇陛下の御聖断により大東亜戦争は終わりました。
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昭和天皇は後に、
「当時の私の決心は、第一にこのままでは日本民族が滅びてしまう、
私は赤子を保護することが出来ない。
第二には国体護持の事で木戸も同意見であったが、
敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、
神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。
これでは国体護持は難しい。
故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」

木戸とは内大臣だった木戸幸一です。
昭和20年12月6日、戦犯容疑者として逮捕状の出た木戸は
陛下から夕食に誘われました。
木戸は戦犯容疑者指名を理由に辞退しますが、
陛下はこのように言われました。
「米国より見れば犯罪人ならんも、我が国にとりては功労者なり」


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