2011年6月27日月曜日

「きことわ」で第144回芥川賞を受賞した朝吹真理子さん

 今、手元に10枚10日分の新聞将棋覧の切りぬきが有る。朝吹真理子さんの観戦記で、丁度、平成23年3月11日の大震災の当日に東京の将棋会館本部での郷田、村山戦の描写だ。

 小学生の頃から新聞の将棋観戦記は見てきたが、このような観戦記は初めてだ。指し手については一言も記述されてない。情景、心理描写を淡々と述べていて、それでいて、棋譜、対局者の戦術が解るような、不思議で、新鮮な内容で有る。彼女は将棋を指さない、指せない、しかし、指したことの有るような、記述表現だ。大地震の棋士たち、将棋会館の様子が巧みな文章で記述されている。

 記述では「将棋の謎や面白さは、先がみえない予測不可能にのみあるのではなく、予測可能ななかにこそ、謎を解く秘鍵が隠れているように思えていた」「平面の世界に思考を埋めていることのよじれで、棋士の人体は人体から遠ざかり、時間から置き去りにされているようにも思えた」「ふと、鳥類の声がしなくなった・・・鳴き声は聴こえない。大きな地震であったことをそれで解した」「駒をしまうと盤上はのっぺらぼうになる。・・・盤はいかなる痕跡も残さない。勝負が終われば全て消える」。息子が推奨してた、彼女の受賞作「きことは」は未だ読んでいない、早速、書店で買い求めよう。

 私は小学4、5年の頃、近所のおやじさんから将棋の手ほどきを受け、以来、中学、高校、大学では将棋部に入部、関東リーグ参戦、社会人になり、会社対抗、退職後は伊達市の大会に参加、児童館での子供将棋のボランテイア指導、東京へ出かけたときは将棋道場回り、結婚前までは、一人旅が好きなので、寝袋を下げて、北海道から九州まで、各地の将棋道場を訪ねて歩いた。中国生活13年間は中国将棋を覚え、チベット、北京、各地で見知らぬ人々と将棋を楽しんだ。将棋の思い出話しは尽き無いが、後日ブログに譲る。


朝吹真理子さんの日経新聞王座戦郷田vs村山観戦記

 朝吹真理子による、日本経済新聞夕刊に10回に分けて掲載された、王座戦二次予選決勝、郷田真隆九段対村山慈明五段戦の観戦記。観戦記に一切将棋の符号は出てこない。小説を読んでいるようである。しかし、あくまできちんと具体的な事実に即して細部の事象を何も見逃さずに再現している。しかし、きちんと事実だけを述べているにもかかわらず、どことなく現実でありながら現実でない光景を読んでいるような錯覚に陥る。例えば、朝吹が前夜の夢の中で対局室でお茶をこぼしたら、実際に郷田がほうじ茶をこぼしてしまうシンクロニシティー。
 
 朝吹が羽生善治と「新潮」で対談した際に述べていた、「将棋の対局においてあらわれる様々な時間軸の交差」について、これも具体的な対局の進展に即して描出している。終盤に近づくにつれて、どんどん盤面の世界に入り込んでいく二人を「深海魚」と表現したりしながら。

 当日は、東日本大震災の日だった。その場にいた羽生など、棋士たちの様子も克明に描き出されている。郷田は記録係に「余震が大きかったらこちらを何にせず逃げてもいいから。」と言葉をかけ、「揺れが続くなか背筋を伸ばして森下九段は笑っていた。」 
郷田九段は「将棋の研究をしているとあまりによく出来過ぎているので、今生は何回目かの文明ではないかと前はよく思っていた。と後に語った。その円環的時間のことがずっと印象に残っていた。
 羽生がこういうことを言うのなら、もう驚かない。でも、郷田がこんなことを言うとは。朝吹VS郷田対談も必要そうだ。

朝吹は、結局深夜の終局後までつきあって会館で仮眠したようである。名人戦第一局も現地で取材されていて、その様子がBSやネット中継でも少し見られたが、対局者や盤面を本当に食い入るように観察していた。全然遊び半分でなく本気で、ちょっと作家の狂気のようなものを感じてしまうくらいだった。本当に将棋や棋士がお好きなのだろう。棋士と通ずるものを持たれているのかもしれない。
観戦記は、このように終わる。
駒をしまうと盤面はのっぺらぼうになる。存在していた規則も意味も失われる。一局のうちにとめどない変化を目にしていたはずだった。盤はいかなる痕跡も残さない。勝負が終われば全て消える。

110617resilience朝吹 真理子

東京都出身。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。近世歌舞伎を専攻し、修士論文のテーマは鶴屋南北[1]

吉増剛造を囲む会にてスピーチしたところ、それを聞いていた編集者から小説を書くよう熱心に勧められた[2]。それをきっかけに、小説家としてのデビュー作「流跡」を「新潮2009年10月号に発表、2010年堀江敏幸の選考で20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。「きことわ」(新潮9月号)で、第144回芥川龍之介賞(平成22年度下半期)受賞[3]


小学生時代からやっている将棋とチェスが趣味。将棋については、特に名人戦や竜王戦のテレビ中継をよく見ていて、執筆の合間ではなく1日中かじりつくように見ているとのこと。更に、受賞作の『きことわ』には、《棋譜が音楽になってる。E4からはじまってステイルメイトで終わる》と、チェスの話が書かれている。
将棋の実戦や詰め将棋は苦手なため、実際に指すことはほとんどない[4]。しかし、『将棋世界』を愛読し、『囲碁・将棋ジャーナル』などの将棋関連番組も視聴しており、東急将棋まつりにも足を運ぶ[4]

詩人仏文学者朝吹亮二祖父朝吹三吉曾祖父実業家朝吹常吉衆議院議長などを歴任した石井光次郎高祖父実業家朝吹英二陸軍軍人長岡外史立憲政友会正統派総裁などを歴任した久原房之助翻訳家朝吹登水子シャンソン歌手石井好子大叔母にあたる。

以下、朝吹真理子さんのお話の抜粋です

・小説を書く動機をよく聞かれるが、「書きたいテーマ、伝えたいことはない」からスタート。何かを伝えたくて小説を書くことはない。

・「卵」という字から、背中合わせの、髪の毛でつながっている、二人の女性がひらめいた

・文学は文字により、読者に想像を引き起こす。絵画、写真、映像がない分、それぞれの読者に独自の強いイメージを描かせることがある

・小説を書くというよりは、モノを創っている。手段、媒体が文字。あなたに向けて手紙を書いている

・絵画、彫刻はすべて同時に鑑賞されるが、小説、音楽はある時間の経過と共に、伝わり、初めと終わりが同時に鑑賞されることはない

・読者は小説を自由に読む立場、傲慢な存在で構わない。どんな名作であっても、自分にフィットしない日は3行で飽きることがある

・読者と全く違う場所、空間、時間にいる作者が書いたものが、読者に深い感銘、懐かしさを引き起こす、時空を超えた共鳴現象が起き得る不思議がある

・瞬間瞬間に移り変わる水面に映し出されるものが「真実」。ちょっと前とちょっと後で全く異なることがあるが、それぞれが真実。

・生を受けるとは、本来、両親の生殖行為の結果であり、本人の意思とは全く関係がない、受動的なもの。しかし、受動的に生を受けながらも、主体的に生きていくことになる

・「なぜ小説を書くのか?」という問いかけは、答えがない問いかけ。「なぜ生きるのか?」と同じもの

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